海老名の憲政碑除幕式
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1933年(昭和8年)10月1日午前、発起人の胎中楠右衛門の他、衆議院議長秋田清、文部大臣鳩山一郎、商工大臣中島久萬吉、元内務大臣望月圭介、立憲政友会幹事長山口義一、神奈川県知事横山助成、海老名村長望月珪治、そして憲政功労者の遺族約500名が参列して憲政碑の除幕式が行われた。当日、小田急小田原線は新座間駅まで満員であり、新座間駅は大忙しとなり、またタクシーが足りないために駅で降りた式典参列者が右往左往したとのエピソードが残っている。 式典はまず胎中邸隣の曹洞宗金龍山常泉院で法要が営まれ、引き続き碑の除幕式が執り行われた。式は海老名村長望月珪治の開会の辞に続き、胎中楠右衛門の孫である胎中敬が碑を覆っていた幕を外し、憲政碑がその姿を現した。 続いて発起人の胎中楠右衛門が挨拶をした。胎中はまず 近時、世上の一部に政党を排撃し、憲政を呪詛するごとき声を聞くが、それらの言うところには大いなる錯覚がある。 と述べた上で、現憲法は明治大帝が欽定された不磨の大典であるので、わが国の憲政は微動だにしないものであると主張した。 続いて胎中は、議会政治、政党の擁護論を展開する。 憲法が厳存する以上、政党が存在して議会政治の運用を円滑にすることは自然の必要である。すべて専制政治に甘んじ、民権も自由も無くてよいという国民ならばともかく、いやしくも文化の程度が向上して、全国民が政治に関心を持ち、政党によって政治意識を表現し、それによって国民としての福利を増進し、いわゆる一君万民の実を挙げて国運を拓開していこうとする日本国民は政党を排撃し、憲政を呪詛すべきではない。 と語った。 胎中は更に、憲政のために尊い犠牲を払った実例として、犬養毅、濱口雄幸、井上準之助、そして原敬、星亨、伊藤博文の名を挙げ、返す刀で日清戦争、日露戦争において、大将、中将のいったい誰が戦死したであろうかと続けた。また政治家についてはまさに棟梁級の人物が憲政発展の犠牲となっていて、その他にも多くの人々が身や財産をなげうって憲政に貢献してきたのにも関わらず、多くの場合軍人に対して与えられる恩給、勲章などの恩典に恵まれることがないとして、国民に対して憲政に尽くした政治家を敬い、正しい認識を持って欲しいと主張した。 そして軍人には忠魂碑のように、その功績を称える記念物が各所に建立されているが、憲政功労者も軍人と同様にその功績を称える記念碑の建立が必要であるとして、自らがその先陣を切って神奈川県、三多摩地域で憲政発展に尽力した功労者を称える碑を建立したと、憲政碑建立に至ったいきさつを説明し、最後に後進が先人の意志を継いで憲政発展のために奮起することを願うとした。 胎中楠右衛門の挨拶に続いて、来賓の衆議院議長秋田清、神奈川県知事横山助成、元内務大臣の望月圭介が挨拶に立ち、いずれの挨拶も憲政碑の建立を義挙であると称え、これからも国家と憲政の発展に尽くしていかねばならないと述べた。挨拶に引き続いて各来賓が祭文を奉じ、最後に初代衆議院議長中島信行の長男でもある商工大臣の中島久萬吉が憲政功労者遺族を代表して感謝の挨拶を述べ、正午に式典は終了した。午後からは政友会の衆議院議員伊藤痴遊の講演や、地元の青年団などによる海老名音頭や手踊り、歌舞伎劇などの余興が催され、憲政碑除幕式の一日は海老名村を挙げての賑わいとなった。
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