浮世絵武者絵とは? わかりやすく解説

浮世絵武者絵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/29 07:26 UTC 版)

武者絵」の記事における「浮世絵武者絵」の解説

初期から浮世絵終期にあたる明治時代まで、多数浮世絵師によって描かれている。初期では、菱川師宣による墨摺絵大江山酒呑童子18組などが知られその後奥村政信鳥居派らによる丹絵漆絵などに、武者絵馬の系譜引いた武人活躍が力強いタッチ描かれた作が見られる。また版本では、軍記物の中から英雄達が活躍する場面抽出したヒーロー図鑑のような絵本のほか、頼光義経為朝特定の英雄扱った一代記ものの草双紙多く作られ絵巻物類は子供教育的役割果たした多色刷り錦絵時代になると、勝川春章に続く勝川派絵師たちが一枚物武者絵多くの筆をとった。しかし、江戸幕府による長い平和の時代には、武者絵は、故事伝説芝居上という印象強く、しばらくは発展しない状態が続いた。 だが、寛政の改革以後幕府軟文学好色本取締まりし始めると、武士倫理鼓吹する曲亭馬琴の著す読本流行相まって武者絵ブーム招来する。そのきっかけとなったのは「太閤記」の流行だったが、江戸幕府禁令によって、徳川家天正年間以降大名家を描くことは禁止されていた。『市中取締類集』によると、川中島の戦い天正以前なのでお咎めはなかったが太閤記ご法度であり、文化元年1804年)『絵本太閤記』を錦絵にした喜多川歌麿らは処罰されている。しかし、これらの事柄売上期待できたため、天正年間以前表面上よく似た事件仮託して描く手法が発達した例えば、当時人気画題であった本能寺の変は、土佐坊昌俊源義経夜襲をかけた堀川夜討に、朝鮮での虎退治知られる加藤清正は、武内宿禰和藤内仮託され、本来は別の事柄描いていることを示すため、名前をもじったり、家紋武器、兜などその人物を象徴するシンボルを絵の中に潜ませる事で規制すり抜けている。 文化文政期勝川春亭三枚続武者絵多く手がける次いで歌川国芳が、当時武者絵国芳といわれるほどの評判得て画面からはみ出さんばかり力強く勇壮な作品数多く描き武者絵最盛期迎えた。その図様絵馬だけでなく、幟や半纏印籠扇子、凧などにも描かれこうした身近な物だけでは飽きたらず、自らの身体武者絵刺青を彫ることが流行する

※この「浮世絵武者絵」の解説は、「武者絵」の解説の一部です。
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