浮世絵師としての活動
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帰京後、絵師を志し、河鍋暁斎や柴田是真らと席画会(後援者の前にて、即興で書画を揮毫すること。)を共にしたと言われる。チャールズ・ワーグマンに西洋画法を習った逸話もあるが、現代では否定的に取られており、明確な師は居なかったと考える説が複数が出てきている。 1876年(明治9年)1月、版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」を版行、同年8月に『東京名所図』シリーズを版行する。明暗を強調し、先達の「開化絵」とは異なる、洋紅を多用しない、上品な色使いと、輪郭線を用いない(使っても墨ではなく、茶色)空間表現で、東京の発展と人々の変化を描き、「光線画」と呼ばれ、人気絵師となる。 1881年(明治14年)、『團團珍聞』に入社。「ポンチ絵」と呼ばれる社会風刺漫画を、木版錦絵だけでなく、石版画や銅版画による新聞挿絵でも表現した。それによって「光線画」は90数点で終えることになる。 1884-85年(明治17-18年)には、「近接拡大法」と呼ばれる、近景を極端に大きく描いた、歌川広重『名所江戸百景』の影響が顕著な『武蔵百景之内』全34図を版行し、「光線画」の「革新」から、懐古的画風に変わる。 1894(明治27年)に團團珍聞を退社し、「清親画塾」を開く(1896年まで)。『淡墨絵独習法』『毛鉛画独稽古』等の教本も出版している。 日清戦争時、戦闘場面を描いた錦絵を80点以上版行した。中には5枚続きものもある。多くの絵師が戦争画を描き、その中には清親の門人、田口米作もいた。戦争絵全体の版行数は300点以上で、清親のそれが最も多かった。画風は嘗ての「光線画」を思わせる。日露戦争時にも「光線画」風戦争画を描いた。 その後は新聞・写真・石版画等の新媒体に市場を奪われ、錦絵の注文は無くなる。各地を旅し、肉筆画を揮毫するようになった。 1900年(明治33年)、『二六新報』に入社するが、そこでの連載記事掲載を止めてもらう為の賄賂を受け取ったとして、妻ヨシ共々逮捕され、1903年に裁判を受ける。その後、肺炎の為、伴侶と共に寝込むことになり、『二六新報』を退社する。 1915年(大正4年)、68歳で没す。法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院にあり、渡辺庄三郎建立による「清親画伯之碑」もある。
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