浮世絵師としての活動とは? わかりやすく解説

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浮世絵師としての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:52 UTC 版)

小林清親」の記事における「浮世絵師としての活動」の解説

帰京後絵師志し河鍋暁斎柴田是真らと席画会(後援者前にて、即興書画揮毫すること。)を共にしたと言われるチャールズ・ワーグマン西洋画法を習った逸話もあるが、現代では否定的に取られており、明確な師は居なかったと考える説が複数出てきている。 1876年明治9年1月版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋真景」「東京五大一両真景」を版行同年8月に『東京名所図』シリーズ版行する。明暗強調し先達の「開化絵」とは異なる、洋紅多用しない、上品な色使いと、輪郭線を用いない使っても墨ではなく茶色空間表現で、東京発展人々変化描き、「光線画」と呼ばれ人気絵師となる。 1881年明治14年)、『團團珍聞』に入社。「ポンチ絵」と呼ばれる社会風刺漫画を、木版錦絵だけでなく、石版画銅版画による新聞挿絵でも表現した。それによって「光線画」は90数点で終えることになる。 1884-85年(明治17-18年)には、「近接拡大法」と呼ばれる近景極端に大きく描いた歌川広重名所江戸百景』の影響顕著な武蔵百景之内』全34図を版行し、「光線画」の「革新」から、懐古画風に変わる。 1894(明治27年)に團團珍聞退社し、「清親画塾」を開く(1896年まで)。『淡墨独習法』『毛鉛画独稽古』等の教本出版している。 日清戦争時、戦闘場面描いた錦絵80点以上版行した。中には5続きものもある。多く絵師戦争画描き、その中には清親門人田口米作もいた。戦争絵全体版行数は300点以上で清親のそれが最も多かった画風嘗ての「光線画」を思わせる日露戦争時にも「光線画」風戦争画描いたその後新聞写真石版画等の新媒体市場奪われ錦絵注文無くなる。各地旅し肉筆画揮毫するようになった1900年明治33年)、『二六新報』に入社するが、そこでの連載記事掲載止めてもらう為の賄賂受け取ったとして、妻ヨシ共々逮捕され1903年裁判を受ける。その後肺炎の為、伴侶と共に寝込むことになり、『二六新報』を退社する1915年大正4年)、68歳没す法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草竜福院にあり、渡辺庄三郎建立による「清親画伯之碑」もある。

※この「浮世絵師としての活動」の解説は、「小林清親」の解説の一部です。
「浮世絵師としての活動」を含む「小林清親」の記事については、「小林清親」の概要を参照ください。

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