浮世絵の美人画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 23:48 UTC 版)
女性美をモチーフとした絵画は、さまざまな文化に見られる。古例では正倉院の「鳥毛立女屏風」を挙げることが出来る。時代は飛び室町末期に生まれた近世初期風俗画では、多様なモチーフの中で女性の姿も見受けられるが、時代が下り主題の整理が進む中、女性その物をテーマにした「寛文美人図」のような作品が現れる。これが浮世絵にも流れ込み、ごく初期では菱川師宣の肉筆美人画「見返り美人図」がある。その後、錦絵の確立とともに、華奢で少女のようなあどけなさを持つ女性を多く描いた鈴木春信の美人画が流行した。天明期には鳥居清長の八頭身で手足が長く描かれた美人が好評を博す。寛政年間には喜多川歌麿が、より肉感的に美人を描き、大首絵などで一世を風靡した。文化・文政期以降になると渓斎英泉や歌川国貞などが描くような嗜虐趣味や屈折した情念を表すような退廃的な美人画が広まる。これらは江戸での動きだが、京都でも源琦や山口素絢ら円山派を中心に、京阪の富裕な商人層に向けて盛んに美人画が描かれた。19世紀初期には祇園井特や三畠上龍のように独特なアクの強い表現の絵師も現れる。 浮世絵の女性の描き方には独特の傾向がある。時代や絵師によってもかわってくるが、小さい、あるいは切れ長の細い目、細面や下膨れした顔といった女性像が特色である。このような女性の顔は、古くから日本人の理想とされていた。ポルトガル出身の宣教師ルイス・フロイスも『日本覚書』に「ヨーロッパ人は、大きい眼を美しいとみなす。日本人は、それをぞっとするようなものとみなし、涙の出る部分が閉ざされているのを美しいとする」と記している。ロングセラーを誇る江戸時代の化粧指南書、『都風俗化粧伝』においても「目の大なるをほそく見する伝」という項が存在する。 浮世絵の美人画では、モデルとなった人物の顔立ちに似ているかどうかは重要視されなかった。同じ版画のモデル名の部分だけを変えて売られることも平然と行われていたし、見分けの付かない女性が同じ画面に複数登場しても問題とはされなかった。美人画を見る人々にとっては表情の機微や個々の差違よりも、モデルとなった美女がどの浮世絵師の「型」で表されるかという事の方が重要だったためである。評判を取った型は他の浮世絵師にそっくり模倣され、歌麿美人・国貞美人・春信美人といった時代を代表する理想の容姿を表す型が作られていった。 このように浮世絵の美人画は、吉原の遊女や町の看板娘など当世の美人が理想化されているが、江戸から明治の浮世絵美人画の発展の経緯を俯瞰すると、時代が進むのに応じて彫・摺の精度や色材の鮮やかさが高まっていく、浮世絵版画全般に共通する「技術的進化」が顕著に反映されていること、さらにそれぞれの時期の美人画を代表する絵師達が、その時代に生きる実在の美人の姿を最大限に描き出そうとして、個々の表現に工夫と独創を凝らしていく「リアリティの追求」による表現様式の進化を辿っている側面があると指摘されている。
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