浮世絵と林忠正とは? わかりやすく解説

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浮世絵と林忠正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:52 UTC 版)

林忠正」の記事における「浮世絵と林忠正」の解説

喜多川歌麿鳥居清長などの絶頂期浮世絵パリ現れたのは、1883年明治16年後半頃と推察される。その頃まで「日本美術」とは主に工芸品のことであり、浮世絵印象派の画家少数愛好家だけのものであった。その浮世絵肉筆画挿絵本、葛飾北斎作品、そして幕末期の“戦記物”“化物”などの芸術性乏し浮世絵中心であった。だが、日本知る人々は、時代を遡る優れた作品がまだ日本眠っている筈と信じて華麗な錦絵探し出しパリ送った初めて見る絶頂期浮世絵パリ人々驚喜した。だが日本では浮世絵卑しいものとされ、町の浮世絵でも、歌麿清長艶やか浮世絵など存在さえ知らなかったも主に工芸品扱っており、浮世絵重きを置かなかった。だが、優れた工芸品次第少なくなり、浮世絵販売転じたのは1889年明治22年)頃だった。若井との協同解いて日本本店移し何人も専門家置いて優れた浮世絵を探らせた。早くから浮世絵扱っていた日本美術商のサミュエル・ビングは、1888年明治21年)頃から度々浮世絵展を開き浮世絵夢中になっていた富豪たちを浮世絵コレクション作り狂奔させた。浮世絵価格高騰し、「日本美術イコール浮世絵」という時代始まったのである1902年明治25年)、パリ残したコレクションサミュエル・ビングによって売りたてられそのうち浮世絵版画は約1800点に上り写楽だけでも24点があった。 取り扱った浮世絵優れた作品が多い。それらの浮世絵には「林忠正」の小印が捺され、現在でもその作品価値保証するものとされている。彼は「浮世絵卑しんで、その芸術性認めないならば、日本から浮世絵失われてしまうだろう」と日本人警告している。そして、どれほど金を積まれても優れた作品手放さず自分コレクションとして日本持ち帰った。だが、死後浮世絵に高い値がついて日本戻ってきたとき、人々は「浮世絵流失させた国賊」と罵った。だが、彼ほど浮世絵卓越した芸術性知り200年にわたる日本版画のすべてを守った者はいない。

※この「浮世絵と林忠正」の解説は、「林忠正」の解説の一部です。
「浮世絵と林忠正」を含む「林忠正」の記事については、「林忠正」の概要を参照ください。

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