浮世絵と林忠正
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喜多川歌麿や鳥居清長などの絶頂期の浮世絵がパリに現れたのは、1883年(明治16年)後半頃と推察される。その頃まで「日本美術」とは主に工芸品のことであり、浮世絵は印象派の画家や少数の愛好家だけのものであった。その浮世絵も肉筆画や挿絵本、葛飾北斎の作品、そして幕末期の“戦記物”“化物”などの芸術性の乏しい浮世絵が中心であった。だが、日本を知る人々は、時代を遡る優れた作品がまだ日本に眠っている筈と信じて、華麗な錦絵を探し出し、パリに送った。初めて見る絶頂期の浮世絵にパリの人々は驚喜した。だが日本では浮世絵は卑しいものとされ、町の浮世絵店でも、歌麿や清長の艶やか浮世絵など存在さえ知らなかった。林も主に工芸品を扱っており、浮世絵に重きを置かなかった。だが、優れた工芸品が次第に少なくなり、浮世絵の販売に転じたのは1889年(明治22年)頃だった。若井との協同も解いて日本に本店を移し、何人もの専門家を置いて優れた浮世絵を探らせた。早くから浮世絵を扱っていた日本美術商のサミュエル・ビングは、1888年(明治21年)頃から度々浮世絵展を開き、浮世絵に夢中になっていた富豪たちを浮世絵コレクション作りに狂奔させた。浮世絵の価格は高騰し、「日本美術イコール浮世絵」という時代が始まったのである。1902年(明治25年)、パリに残した林のコレクションはサミュエル・ビングによって売りたてられ、そのうち浮世絵版画は約1800点に上り、写楽だけでも24点があった。 林が取り扱った浮世絵は優れた作品が多い。それらの浮世絵には「林忠正」の小印が捺され、現在でもその作品の価値を保証するものとされている。彼は「浮世絵を卑しんで、その芸術性を認めないならば、日本から浮世絵は失われてしまうだろう」と日本人に警告している。そして、どれほど金を積まれても優れた作品は手放さず、自分のコレクションとして日本に持ち帰った。だが、林の死後、浮世絵に高い値がついて日本に戻ってきたとき、人々は「浮世絵を流失させた国賊」と林を罵った。だが、彼ほど浮世絵の卓越した芸術性を知り、200年にわたる日本版画のすべてを守った者はいない。
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