浮世絵における花鳥画
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「花鳥画 (日本)」の記事における「浮世絵における花鳥画」の解説
市井や遊里の風俗などを多く描いた浮世絵にも、早くから花鳥の版画があった。初期のころには狩野派が描いてきた松の木にとまる鷹や、和歌の趣意を絵にしたものなどが製作されているが、ほかに西村重長による「上見ぬ鷲」などといった成句を絵にあらわしたものもあり、鳥居清倍や礒田湖龍斎、鈴木春信などが手がけている。 やがて浮世絵における花鳥画は当時の俳諧や狂歌といった文芸と結びつき、俳書(俳諧の句集や解説書)や狂歌集の挿絵に花鳥画が入れられるようになった。絵入りの俳書の例として谷素外編・北尾重政画の『誹諧名知折』(はいかいなのしおり : 宝永10年〈1781年〉刊)、狂歌集として喜多川歌麿画の『画本虫撰』(えほんむしえらみ : 天明8年〈1788年〉刊)や『百千鳥』(ももちどり : 寛政2年〈1790年〉刊)がある。 そうした俳諧との結びつきから、詩歌を記した花鳥画の「歳旦」の摺物が作られるようになる。「歳旦」すなわち正月の贈答品として、俳諧師のあいだで配られた版画であったが、この本来限定品であった摺物から、詩歌を添えた花鳥画の一枚絵が描かれるようになった。この一枚絵の花鳥画を多く手がけたのが初代歌川広重で、広重は生涯に1000点近い花鳥版画を手がけたといわれる。明治になると殆どの浮世絵師が世俗の事象を画題にすることに追われたが、小林清親のみが洋画の影響を受けた花鳥画を残している。
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