浮世絵師・森玉僊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 04:41 UTC 版)
通称は右門、蜂助。玉僊、菊亭、三光堂、紫川亭(横三蔵町在住時)、高雅、蝦翁、素堂などと号す。尾張名古屋鉄砲町(現・愛知県名古屋市中区栄二・三丁目)に生まれる。尾張在住の町狩野の絵師・吉川一渓に狩野派、中林竹洞に南画を学ぶ。竹洞の上洛に付いて行こうとしたが叶わず、代わりに牧墨僊に浮世絵・美人画を学んだという。 文化年間に尾張の地方出版本で頭角を現し、例えば文化14年(1817年)刊行の『狂歌弄花集』の挿絵などが知られている。また初期から肉筆美人画を得意としており、晩年まで制作が続けられたため数多くの作品が残り、往年の人気の高さが窺える。一方で藩主・徳川斉朝の命により、当時の名古屋の繁栄を象徴する「名古屋東照宮祭礼図巻」などを描き、この成功によって玉僊は社会的に広く認められたと考えられる。伊藤圭介をはじめ名古屋で活躍した人々の肖像画や、名古屋の名所を描いた団扇絵(「尾張名所団扇絵」)、弟子の小田切春江と共作した『尾張名所図会』の挿絵でも知られており、時代の風景を写すのに長けていた。
※この「浮世絵師・森玉僊」の解説は、「森玉僊」の解説の一部です。
「浮世絵師・森玉僊」を含む「森玉僊」の記事については、「森玉僊」の概要を参照ください。
- 浮世絵師・森玉僊のページへのリンク