浅野物産の再建
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1918年(大正7年)3月に設立された浅野物産は、終戦後の不景気で資本金の数倍の損失を出した。その1920年(大正9年)に橋本梅太郎が取締役に就任して、従来の思惑買いをやめて堅実なコミッションシステムを経営方針にして、それ以後常に利益を出した。1923年(大正12年)には関東大震災で被害を受けたが、翌日から業務を再開し復興材料の輸入に全力を注いで、被害を相殺した。1925年(大正14年)に浅野物産に精勤賞与を設けて、半年皆勤で5円、一年皆勤で10円、半年毎に5円増額して、5年で50円、その後は半年毎に10円増額し、最高で百円を支給する事にした。但し、一分でも遅刻するとゼロ円に逆戻りするという罰則がある為、遅刻者は皆無となり、浅野物産社員877人の内100人がこの百円組になった。また社員に休養の必要性を説いて、一週間の夏季休暇を規定した。さらに、社員に喫煙の害を説いて禁煙を勧めた。1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)に、浅野物産は金融恐慌にも影響されずに利益をあげて、無配から一割、二割、三割と配当を増やした。1930年(昭和5年)の昭和恐慌では影響を受けたものの、一割の配当を守った。橋本梅太郎は1931年(昭和6年)に浅野物産副社長に就任したが、満州事変で為替が低落すると、英国にみかんの缶詰と雑貨、米国に栗と鮪の缶詰、タイ・ペルシャ・ジャワにビールや電球を輸出してかなりの利益を出した。1932年(昭和7年)に満州に新京出張所を設けて、原油鋼材の輸入や請負工事を行い利益をあげて配当を三割に戻した。1934年(昭和9年)には日本石油瀝青販売総代理権を獲得し、昭和鉄工株式会社に投資し、品川倉庫を建設した。1935年(昭和10年)下半期には資本金の三割の利益を計上し、新聞雑誌で橋本梅太郎の経営手腕が賞賛された。同年に資本金を三倍の三百万円にすると、そのうち五十万円を基金にし、20年以上勤続して満55歳の定年に達してから病気で退職した者に、退職時の給料を死ぬまで支給するという恩給制度を設けて、毎期総利益金の一割を恩給の基金に繰入れる事にした。これは他の民間企業には無い恩典で、賞賛と羨望の的になった。この頃に原油輸入が浅野物産の中心的な業務になったので、タンカー紀洋丸(二代目)(11210トン)をノルウェーから購入したが、当時の日本にはタンカーはこの一隻しかなかった。1936年(昭和11年)に快速タンカー玄洋丸を発注し、資本金を六百万円に増資した。1938年(昭和13年)に資本金を一千万円に増資した。1929年(昭和4年)に日本ヴィクトリックを創立し、1933年(昭和8年)に日本舗道、1934年(昭和9年)に昭和鉄工、1936年(昭和11年)に岡野バルブ製造に投資して、浅野物産を多角化した>。橋本梅太郎は横浜正金銀行の融資で浅野物産を経営したので、正金銀行東京支店長の命日には幹部社員を率いて必ず墓参りをした。上海事変の頃に海軍省艦政本部が三井物産・三菱商事・浅野物産に注文した時に、浅野物産には資本金一億円の正金銀行が付いていると述べて三井・三菱と同等の注文を獲得した。
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