浅野氏の事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:10 UTC 版)
広島藩では福島氏により、安芸国は広島城、備後国は神辺城(村尾城)を残し破却されたが、紀伊から移った浅野氏の所領は、福島氏より狭小なため広島城のみ所有した(神辺城は福山城を築いて移った水野氏により破却される)。 備後国の三原要害(三原城)は、一城令より前に福島正之が追放されてから廃城となっていたが、発令後に福島氏は破却した鞆城の櫓を密かに移築したとも言われる。小早川氏が築いた天主台があったが、浅野氏は福島正則の改易で警戒した点や、備後国内に家康生母に連なる水野氏の福山城があったせいか、実際に天守が建築されたことはない。 筆頭家老の浅野(忠長)家が入り、「要害」(「三原要害」は小早川時代の実際の呼称であり、伊達氏の「要害」改称での継続保持とは異なる)と称するが実質は土塁・櫓・屋敷のある城である。支藩(分家)で大名の三次藩と広島新田藩が陣屋や無城(幕末には吉田陣屋)であることからの遠慮もあるとされる。 支藩(別家)の赤穂藩(笠間藩)は常陸国に笠間城のち播磨国に赤穂城を持ったが、改易となっている。
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