洗脳が解けるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:07 UTC 版)
逮捕後、捜査により麻原彰晃の説法通り「国家権力の陰謀」が明らかになると信じていたが、逆に麻原の偽りが次々と明らかになった。悲惨な被害状況への罪悪感から来る良心の呵責(かしゃく)と麻原への帰依心との間で揺れ、離れかけたが、初公判直前の1995年9月に「光り輝いてるなか、麻原が現れる」という宗教体験をして信仰心がよみがえった。拘置所内で麻原を観想して「識別無辺境・無所有境・非認知非非認知境・認知経験滅尽境の体験を与えて頂いた」といい、1審が終わるまで麻原への命をかけた帰依を表明し続けた。 2003年2月28日の麻原の第250回公判には弁護側の最後の証人として出廷し、「偉大なる完全なる絶対なるグルに帰依し奉ります。最高の叡智であられる偉大なるシヴァ大神に帰依し奉ります。完全なる絶対なる真理に帰依し奉ります。すべてのタントラヤーナ、ヴァジラヤーナの戒律に帰依し奉ります。私の功徳によってすべての魂が高い世界へポアされますように」と麻原への帰依を改めて宣言し、笑みを浮かべて法廷を去った。 洗脳がとける転機になったのは2002年7月から2003年2月にかけて、麻原彰晃の1審に弁護側証人として出廷したことである。「堂々と証言してほしい」という土谷の期待に反して麻原は被告人質問で一言も証言しなかった。「尊師は弟子をほっぽらかしにして逃げたのではないか」と思い始め、2004年頃から教団との軋轢(あつれき)が生じ始めた。 決定打となったのは2006年12月、麻原の1審判決時の精神疾患の兆候が取り沙汰されるような異常行動を記した雑誌記事を読んだことである。「自分が麻原の1審に証人出廷した際、精神疾患の兆しはなく、自分の証言も理解していたし裁判長の反応も気にしていた。1審判決時に精神病を患っているはずがない、弟子達を差し置いて詐病に逃げた」と感じ、麻原から気持ちが離れた。 被害者遺族の苦しみと麻原の説く四無量心が相容れないという矛盾、麻原を観想することにより「監禁されたような精神状態」をもたらすようになったこと、麻原の娘側とのトラブルが重なったことから、「麻原のために命を捨てろ」と言い続けるアレフ関係者・団体(人権救済基金)との面会も2010年3月末を最後に断った。 死刑確定直前の2011年2月には報道各社に手記を寄せ、麻原に対し「個人的な野望を満足させるため、弟子たちの信仰心を利用しながら反社会的行動に向かわせ、多くの命が奪われたことに対し、教祖としてどのような考えを持っているのか、詐病をやめて述べてほしい」と語っていた。
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