法令発布の目的
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:25 UTC 版)
この法令には、物価の騰貴は問屋株仲間が流通を独占したためであり、諸商人による業界参入を自由化すれば、江戸への物資流入が促進され、物価が引き下げられるという狙いがあった。 株仲間による市場支配・価格引き上げ行為に関しては、中井竹山の『草茅危言』、太宰春台の『経済録』『産語』、山片蟠桃の『夢の代』などで社会に与える害悪を指摘されていた。水戸徳川家の当主徳川斉昭も、物価騰貴の原因が貨幣改鋳と十組を中心とした問屋仲間にあると考えており、これを全面的に禁止することを求めて天保12年に水野忠邦に書状(『戊戌封事』『水戸藩史料』別記上、140頁)を送っている。これには、十組問屋が流通を独占したことで日本中が迷惑を蒙っていること、冥加金を得られるといっても株仲間をそのままにしていては天下国家の損になること、十組問屋の利益よりも国民の憂いを考慮すべきことを説き、株仲間を廃止し商売の自由を認めれば物資が多く流入し、物価騰貴も収まるだろうと書かれていた。なお、株仲間解散を提言したものとしては徳川斉昭の意見書の他には、物価問題と関連させて株仲間の解散を論じた中井竹山の『草茅危言(そうぼうきげん)』がある。また江戸市中には株仲間に対する不満と十組を潰して貰いたいという考えも存在しており、十組問屋への批判や仲間解散後にその措置を歓迎する落書などが『藤岡屋日記』などに収められている。 問屋仲間解散後の流通統制についての意見として、法令施行前の天保12年7月には、取締諸色掛の江戸鈴木町肝煎名主源七が、十組問屋仲間の解散を主張し(『大日本近世史料 市中取締類集』一、一四五号)、諸問屋から商品流通の独占権を取り上げ、諸産物の集散地や大都会の便利な場所に検閲所を設け、代官の監督下に商品を集めて、それらを江戸の町会所が一手に集荷して売り払うという中央卸売市場の構想を記した上書を提出している。また水野忠邦は、農学者の佐藤信淵が「復古法」で提示した幕府の手による直接的な産業統制案(「国産統制仕法」)にも興味を抱いていた。 しかし、そういった考えに対する反対意見もあり、当時の江戸の町奉行矢部定謙は徳川斉昭の家臣・藤田東湖に、物価騰貴の原因は度重なる貨幣改鋳にあり、商人の株仲間に責任を帰するのは間違っていると述べていた(「見聞偶筆」『東湖全集』、549-551頁)。そして、物価の騰貴は、諸大名が大坂の問屋を経由することなく産物を江戸に回送するようになったこと、そして諸大名が国産品を江戸に直送したいという願いを幕府が認めてきたことにこそ問題があるとしている。矢部は、大坂問屋の商品扱い量が減少したことで、利益減少分を補うために大坂問屋が口銭(取扱手数料)を倍にしたために商品の値段が高くなったと解釈しており、大坂問屋の商品取り扱い量が減るほどに物価は上昇する、と考えていた。 物価騰貴の原因調査を命じられた大坂町奉行阿部正蔵も、大坂への物資回送量が減少していることが原因で、その対策としては問屋商人による流通機構の再強化を図ることを提言していた。文政年間から、大坂市場に直結してきた瀬戸内海地域の商品が専売制を採用した藩によって中央市場へ直送されるようになっており、文政から天保年間にかけて大坂市場を経由せず江戸に直接専売商品を積み出して入札販売をする藩は姫路・広島・阿波・紀伊・長州・彦根・薩摩・豊前中津・福井・尾張・秋田・米沢・遠州相良・備中成羽・同松山・武州忍藩など多数におよんでいた(『天保撰要類集』国産物之部)。また、大坂への輸送途中に地方へ高値で商品を売買する「道売り(みちうり)」という行為も増えており、その高値取引が大坂市場の相場高騰も招いていた。 しかし、矢部や阿部正蔵の意見は採用されることもなく、全国全ての株仲間は停止された。
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