法令への反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:25 UTC 版)
株仲間解散は、老中の水野忠邦や勘定所(勘定奉行所)が中心となって推進され、本来江戸の町の経済に関与する江戸町奉行はこれに関わっていなかった。物価引き下げ政策に関連して諮問を受けてはいるが、株仲間解散に関する評議にはくわえられておらず、江戸町奉行所にも関係史料は残されていない。 町奉行の矢部は物価騰貴の原因を貨幣改鋳にあると考えていたが(#法令発布の目的参照)、遠山景元も弘化3年7月に書いた上申書(『大日本近世史料 諸問屋再興調』一)で矢部と同様の意見を述べている(#改革後参照)。株仲間解散令に異を唱えていなかった南町奉行の鳥居耀蔵も、天保14年6月の上申書で物価騰貴の要因が劣悪な貨幣にあり、物価の安定は貨幣改革無しにはあり得ないとし、翌7月の上申書には「金銀の弊は御改革の一闕(けつ)」で貨幣だけ改革しないのはおかしいと論じていた(勝海舟『吹塵録』)。 解散を命じる触書は天保12年12月9日に老中から町奉行たちに渡されたが、この時遠山景元は市中への法令伝達を理由を付けて引き延ばしており、そのことで御目通り差し控えの処分を受けた(東京都立大学付属図書館所蔵水野家文書「水野忠邦日記」十二月十四日の条)。 専売制を禁止して各藩の領国経済の発展を抑え、全国市場の機能を強化しようとしたことから、幕府の政策に反発を示す大名もいた。法令が出された際に、菱垣廻船に貸与した藩の船印を返却するよう命ぜられた紀州藩もその1つで、徳川御三家の紀州家の威光で江戸廻送を有利にしようという企図を挫かれたことから恨みを抱き、これが上知令にからむ忠邦打倒運動の動機になったともいわれる。 株仲間解散の本来の目的である物価引き下げの効果がなかなか出ないため、一律2割(20%)以上という物価引き下げ幅を定めて市中の物価を下げようとしたが、実効が上がる前に水野忠邦は失脚する。 天保15年(1844年)には、当時の町奉行・跡部良弼と鍋島直孝が、株仲間を解散しても期待したほど物価が下落しておらず、1万200両の「莫大の冥加金御免仰せ出され候ほどの実効御座無し」として諸問屋組合再興の内慮伺を提出している(「諸色調類集」『東京市史稿』産業篇五六)。
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