法人化・Apple IIの成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 00:36 UTC 版)
「Appleの歴史」の記事における「法人化・Apple IIの成功」の解説
バイトショップとの取引により約8,000ドルの利益を得たジョブズはさらなる事業拡大を望み、そのためには多額の融資が必要となった。ジョブズはアタリ時代の上司ノーラン・ブッシュネルの勧めにしたがい、セコイア・キャピタルの創業者ドン・バレンタインに会って融資を求めたが、バレンタインはAppleへの投資に興味を持たず、代わりにフェアチャイルドセミコンダクター時代の元部下で、個人投資家として財を成していたマイク・マークラを紹介した。 若くして引退生活を送っていたマークラは、ジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、1976年11月に引退から復帰してAppleに加わった。マークラは自分の個人的資産から9万2,000ドルをAppleに投資したほか、バンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保した。マークラは事業に参加する条件として、当時まだHPの社員だったウォズニアックが今後Appleでの仕事に専念することを要求したため、ウォズニアックはHPを辞めざるを得なかった。 マークラの助けを得たAppleは1977年1月3日に法人化され、"Apple Computer, Inc." となった。マークラは会社の成長には経験豊富な経営者が不可欠であると考え、フェアチャイルドセミコンダクター時代の元同僚で、当時はナショナル セミコンダクターの製造部門を率いていたマイケル・スコット(英語版)を引き抜き、Appleの初代社長兼CEOに任命した。スコットは1977年2月からAppleでの仕事を始め、すぐにAppleを組織的にするための施策として、新たに社員番号を入れた社員証を発行した。スコットはその功績を認めてウォズニアックに社員番号1を与えたが、ジョブズは「1」が自分に与えられなかったことに不満を感じ、再考するようスコットに抗議した。しかし、スコットも譲らなかったため、最終的にジョブズは社員番号0を与えてもらうことで妥協した。 Apple Iの後継機種である「Apple II」は、1977年4月16日 - 17日に開催された第1回「ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア」で初めて発表され、その後希望小売価格1,298ドルで発売された。ウォズニアックはApple Iの発売以前から新型コンピュータの開発作業を始めており、1976年8月にはすでにApple IIの実動するプロトタイプを完成させていた。むき出しの基板(マザーボード)として販売されたApple Iとは大きく異なり、Apple IIは基板やキーボード、電源装置などが一体化された筐体であり、テレビ等の外部ディスプレイを接続すればすぐにコンピュータとして使用することができたほか、ディスプレイにカラー表示することが可能なのも大きな特長だった。 Apple IIの販売は当初から好調だったが、1978年7月にウォズニアックが設計した安価かつ高性能な専用外付けフロッピーディスクドライブ「Disk II(英語版)」が登場し、本体の売り上げに大きく貢献した。そして1979年10月にApple II専用として発売された表計算ソフト「VisiCalc」が大ヒットを記録すると、商用・企業用コンピュータとしてのApple IIの需要に火がつき、その販売台数は飛躍的に増加した。1977年に2500台だったApple IIの販売台数は、1981年には21万台にまで急増していた。マイクロコンピュータ市場におけるApple製品のシェアは1978年には10パーセントだったが、1980年には27パーセントとなり、タンディとコモドールを上回って業界トップに躍り出た。
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