河合・帝キネ・新興
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河合では早撮りの腕を磨いたと言われ、確かに4月からで11本を撮っているが、曾根がオリジナル脚本を書いた記録がない。マキノ出身で衣笠貞之助の衣笠映画連盟で脚本を書いていた三村伸太郎ともっぱら組み、『東海道膝栗毛 第一篇 地獄から這上った弥次喜多』、『新版東海道膝栗毛 第二篇 化かされた弥次喜多』を杉狂児の弥次さん、おなじくマキノから来た大岡怪童の喜多さんで撮ったりしていた。また、弟子の鈴木桃作は河合ですぐに監督に昇進したが、おなじマキノ出身の三村や八尋不二の脚本で撮っており、曾根も八尋のオリジナル脚本で『股から覗いた国定忠次 山形屋藤蔵』(1929年)なども撮った。曾根は河合で合計25本を撮って、1929年(昭和4年)いっぱいで河合を退社、帝国キネマ(帝キネ)に移籍した。 帝キネでは1930年(昭和5年)からの約2年で15本、というペースで撮った。移籍第1作は佐々木邦原作の『次男坊』で杉狂児が主演した。同年8月の『太陽児』では「椎名良太」名義のオリジナル脚本が復活した。1931年(昭和6年)には加藤武雄原作の『春遠からず』、広津和郎原作の『女給』、杉狂児・小宮一晃の『弥次喜多道中東海道』を撮るうちに、帝キネは新興キネマへと改組した。曾根はそのまま残留した。 新興となっての第1作となった菊池幽芳原作の『毒草』(1931年)は、かつて1917年(大正6年)に各社競作となった作品のリメイクであった。1933年(昭和8年)には、かつて「マキノ青年派」のひとりとして売り出されたマキノ梅太郎が主演した『ひよどり草紙』のリメイクを尾上菊太郎主演で撮っている。1934年(昭和9年)に夏には「曽根千晴」と突然改名、竹田敏彦原作の『東郷盃』からクレジットされはじめた。1935年(昭和10年)の『国を護る日蓮』以降はトーキーとなった。その後1941年(昭和16年)まで同社で量産したが、佐藤紅緑原作の『あの山越えて』を最後に突然退社した。映画界からの引退となった。43歳であった。 第二次世界大戦中は、近衛十四郎と劇団をつくって巡業していたこともあった。 戦後1952年(昭和27年)、京都の新京極に戦前からある寄席「富貴」を経営したが2年ほどで手放した。1954年(昭和29年)には若杉光夫監督の山田五十鈴主演作『唐人お吉』を製作したが興行的に失敗、借財を背負ったという。 その後、1970年代まで健在だったようだが、没年は不詳である。
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