河合・帝キネ・新興とは? わかりやすく解説

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河合・帝キネ・新興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/18 15:06 UTC 版)

曾根純三」の記事における「河合・帝キネ・新興」の解説

河合では早撮りの腕を磨いたと言われ確かに4月からで11本を撮っているが、曾根オリジナル脚本書いた記録がない。マキノ出身衣笠貞之助衣笠映画連盟脚本書いていた三村伸太郎もっぱら組み、『東海道膝栗毛 第一篇 地獄から這上った弥次喜多』、『新版東海道膝栗毛 第二篇 化かされ弥次喜多』を杉狂児弥次さん、おなじくマキノから来た大岡怪童喜多さんで撮ったりしていた。また、弟子鈴木桃作河合ですぐに監督昇進したが、おなじマキノ出身三村八尋不二脚本撮っており、曾根八尋オリジナル脚本で『股から覗いた国定忠次 山形屋藤蔵』(1929年)なども撮った曾根河合合計25本を撮って1929年昭和4年いっぱい河合退社帝国キネマ帝キネ)に移籍した帝キネでは1930年昭和5年)からの約2年15本、というペース撮った移籍第1作佐々木邦原作の『次男坊』で杉狂児主演した同年8月の『太陽児』では「椎名良太名義オリジナル脚本復活した1931年昭和6年)には加藤武雄原作の『春遠からず』、広津和郎原作の『女給』、杉狂児小宮一晃の『弥次喜多道中東海道』を撮るうちに、帝キネ新興キネマへと改組した。曾根そのまま残留した新興となって第1作となった菊池幽芳原作の『毒草』(1931年)は、かつて1917年大正6年)に各社競作となった作品リメイクであった1933年昭和8年)には、かつて「マキノ青年派」のひとりとして売り出されマキノ梅太郎主演したひよどり草紙』のリメイク尾上菊太郎主演撮っている。1934年昭和9年)に夏には「曽根千晴」と突然改名竹田敏彦原作の『東郷盃』からクレジットされはじめた1935年昭和10年)の『国を護る日蓮以降トーキーとなったその後1941年昭和16年)まで同社量産したが、佐藤紅緑原作の『あの山越えて』を最後に突然退社した映画界からの引退となった43であった第二次世界大戦中は、近衛十四郎劇団つくって巡業していたこともあった。 戦後1952年昭和27年)、京都新京極戦前からある寄席富貴」を経営した2年ほどで手放した1954年昭和29年)には若杉光夫監督山田五十鈴主演作唐人お吉』を製作した興行的に失敗借財背負ったという。 その後1970年代まで健在だったようだが、没年不詳である。

※この「河合・帝キネ・新興」の解説は、「曾根純三」の解説の一部です。
「河合・帝キネ・新興」を含む「曾根純三」の記事については、「曾根純三」の概要を参照ください。

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