河合・大都での量産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 10:19 UTC 版)
1930年(昭和5年)、操は河合映画製作社に入社、その第1作として『特急恋愛』を監督、同年2月21日に公開される。「高松操」名義で5本を撮るのに平行して、同年3月30日に公開された『巨漢』を皮切りに「吉村操」名義でも5本を撮り、同年11月14日公開の『村で三日目の恋物語』から「吉村操」名義に一本化する。以降、1933年(昭和8年)の河合の大都への改組までのわずか3年で66本の映画を監督している。この時点でまだ28歳であった。 大都への改組後、操は現代劇部長に就任する。またこのころ、岡本芳子と結婚、高松姓を離れ、戸籍上「岡本」姓となり、仕事上は「吉村」姓をつづけた。大都映画では104本を監督し、1941年(昭和16年)に大都を退社、皇国映画に移籍する。小崎政房原作、御荘金吾脚本の藤間林太郎主演作『子供ごゝろ』など2本のトーキーを監督した。その後、当時の国策映画会社「華北電影股份有限公司」に入社、中国語映画を撮る。1944年(昭和19年)10月帰国、大都映画らが戦時統合で結成した大映に入社、東京企画部に在籍した。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により、浅草区田町2丁目16(現在の台東区浅草5丁目)の自宅で、吉村は死去した。推定39歳没。
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