櫻井彌一郞とは? わかりやすく解説

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さくらい‐やいちろう〔さくらゐやイチラウ〕【桜井弥一郎】

読み方:さくらいやいちろう

[1883〜1958]野球選手指導者長野生まれ慶大野球部二塁手投手として活躍明治36年(1903)初の早慶戦勝利投手となる。のち三田倶楽部(クラブ)の会長となり、実業団野球選手養成にも力を注いだ


桜井弥一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 14:20 UTC 版)

桜井 弥一郎(櫻井 彌一郞)
第1回早慶戦の両校選手
(1903年11月21日。後列右から3人目が桜井弥一郎)
基本情報
国籍 日本
出身地 長野県南佐久郡桜井村(現:佐久市
生年月日 (1883-12-02) 1883年12月2日
没年月日 (1958-05-17) 1958年5月17日(74歳没)
選手情報
ポジション 投手二塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1960年
選出方法 特別表彰

桜井 弥一郎(さくらい やいちろう、旧字体櫻井 彌一郞1883年12月2日 - 1958年5月17日)は、長野県出身の野球選手

経歴

旧制上田中学から1902年慶應義塾大学へ進学。1年先輩には同じく上田中学校から進学した宮原清がいる。

1903年11月21日に行われた第1回早慶戦では慶應のエースとして先発投手に抜擢された。試合は早稲田の河野安通志と投げ合った結果11-9で慶應が勝利し、早慶戦最初の勝利投手となった。河野とは早慶戦で6試合先発として対決し、通算成績は3勝3敗だった。

大学卒業後は豊国銀行に入行。三田倶楽部の会長に就任し、後世の育成に尽力した。1911年第一回慶應野球部アメリカ遠征チーム監督。東京六大学リーグ理事、日本社会人野球協会顧問などを歴任した。1958年5月17日に74歳で死去。1960年野球殿堂入り。

参考文献

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