榴弾以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 04:39 UTC 版)
ヨーロッパで炸裂する砲弾(榴弾)が一般化するのは16世紀中ごろのことである。石や鋳鉄でできた中空の砲弾に火薬を詰めたもので、時限信管の役目を果たすゆっくり燃える部分と爆轟する部分があり、臼砲を使って発射した。発射時の瞬間的な発砲炎が信管を着火し、一定時間後に内部の火薬が爆轟する仕組みだった。実際には信管に火がつかないことがあり、炸裂までの時間もうまく調整できないことが多かった。 その後、榴弾にはゆっくり燃える火薬を詰めた鋳鉄または銅製のプラグが装備された。砲弾の発射時に信管に点火させるよりも、手で信管に点火してから発射する方が信頼性が高かった。このため砲手が信管に点火してから射線から避ける時間を短くするために前装式の砲身が十分短くなければならなかった。砲身が短いために砲口初速が小さくなり、弾道を高くする必要があった。このような砲として、臼砲や榴弾砲が使用された。 1871年までは、鋳鉄製の球形の砲弾が通常弾として使われていたが、1823年、フランスの将校であるアンリ=ジョセフ・ペクサン(en:Henri-Joseph Paixhans)は、低い弾道のカノン砲(ペクサン砲)で発射できる炸裂する榴弾を発明した。1840年代以降、各国の海軍がこの砲を採用し、そのために被弾時に燃えやすい木造軍艦の時代が終わり、造船における鉄製船体への移行が起きた。そのころには、不発弾を防ぐために、着発信管がきちんと目標に向くよう砲弾に装弾筒(サボ)と呼ばれる木製の円盤を銅のリベットで取り付けて装填するようになった。また、装弾筒は、砲弾が真っ直ぐ発射されるのを補助する役目もあるとされていた。ただし、臼砲の砲弾には装弾筒は使われなかった。 19世紀後半、ライフル砲が実用化されると、球形ではなくて椎の実型の砲弾(長弾)が使われるようになった。ライフリング自体は15世紀に考案されていた技術であるが、大砲への実用はこの頃であった。ライフリングとうまく噛み合わさるような砲弾の構造が研究され、鉛や銅などの柔らかな金属でできた覆帯を巻いてライフリングが食い込むようにする方式(鉛套弾)や、前裝砲用として筍翼(スタッド)を表面にとりつけて溝にはめ込む、ライット・システム方式が実用化された。 19世紀末まで砲弾には鋳鉄が使われていた。鋼はまず、その硬さから徹甲弾に使われ、その後、施条された高初速な砲で使われるようになった。鋳鉄では高初速砲の発射時の衝撃に耐えられず、ライフリングで旋転中に割れてしまうからである。 この間に特殊な砲弾も開発された。照明弾(星弾)は17世紀には実用化されており、イギリス軍は1866年にパラシュート付きの照明弾を10インチ砲、8インチ砲、5.5インチ砲用に導入した。この10インチ砲用の照明弾は、実に1920年まで公式には制式装備とされていた。 第一次世界大戦時、破片を撒き散らす榴散弾や榴弾が歩兵に甚大な被害を与えた。戦死者の70%はそれらの砲弾によるものである。このため、弾片避けの鋼鉄製ヘルメットが標準装備になっていった。1917年には、毒ガスを詰めた砲弾が使われ始めた。 当時は信管の信頼性がまだ低く、砲弾が炸裂しなかったせいで戦況に影響を与えたこともある。不発弾が大きな影響を与えた戦例としては、1916年のソンムの戦いを挙げることができる。また後世に不発弾が発見されると、誤って炸裂させることが無いように、適切に処理しなければならない。
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