楓川に架かる橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 04:21 UTC 版)
節内の全座標を示した地図 - OSM節内の全座標を出力 - KML 表示 1945-1946年に米軍が作成した地図より楓川周辺 日本橋川側(北側)から 兜橋(地図)1885年(明治18年)架橋。橋の名は東岸の兜町と同様、兜神社境内の「兜塚」による。関東大震災復興事業に伴い架け替えが行われ1926年(大正15年)竣工。第二次世界大戦後の楓川埋め立てにともない撤去。 千代田橋(地図)1910年(明治43年)架橋。震災復興事業に伴い(永代通りの拡幅)架け替えが行われ、1926年(大正15年)竣工。石造の親柱などが残る。 海運橋(地図)寛永江戸図に「たか橋」とあり、江戸初期に架橋された橋である、後に「海賊橋」「将監橋」と称されたが、これは東詰に江戸幕府船手頭の向井忠勝(向井将監)屋敷が存在したことによる。明治元年(1868年)に「海運橋」と改称。近代に入って1875年(明治8年)・1927年(昭和2年)に架け替えが行われる。第二次世界大戦後の楓川埋め立てにより撤去されたが、親柱二基が残る。 新場橋(地図)17世紀の創架。延宝2年(1674年)、橋の西詰に日本橋魚河岸に続く第二の魚河岸として新肴場(新肴場河岸)が設置され、新場と略された。近代以後は1875年(明治8年)・1930年(昭和5年)に架け替えが行われる。 現代は高速道路を跨ぐ橋となっており、橋上に楓川新場橋公園(132.23㎡)が整備されている。 久安橋(地図)17世紀の創架。『寛永江戸図』には「下野橋」とあり、橋の東側にあった「下野守」屋敷との関連で架けられたものと考えられる。その後、東詰に桑名藩松平越中守上屋敷が置かれ、「越中(殿)橋」と呼ばれた。明治元年(1868年)「久安橋」と改称。この名については以下のような諸説がある。単に美称をつけたとする説 古く御坊主久安の屋敷があったことに因むとする説 「久」の字が、松平越中守の本姓が「久松」(久松松平氏)であったことに関連するとする説。 現代は高速道路を跨ぐ橋となっており、橋上に楓川久安橋公園(1,530.45㎡)が整備されている。 宝橋(地図)震災復興事業の楓川改修と道路建設にともない1929年(昭和4年)竣工。 現代は高速道路を跨ぐ橋となっており、橋上に楓川宝橋公園(960.56㎡)が整備されている。宝橋より南では、上空に東京高速道路への接続路が架かっている。 松幡橋(地図)明暦の大火後の架橋。この橋の西方に松屋町、東方に因幡町があったことから一字ずつをとったとされる。江戸時代には松屋橋とも呼ばれた。近代以後は1930年(昭和5年)に架け替え竣工。 現代も高速道路を跨ぐ橋として残る。 弾正橋(地図)江戸初期、東詰に島田利正(島田弾正)屋敷があったことから名づけられたとされる。『江戸雀』などでは「戸越橋」とも記される。京橋川の白魚橋(地図)、三十間堀川の真福寺橋(地図)と併せて「三ツ橋」と呼ばれた。 1879年(明治11年)に鋳製鉄橋に改架。これは日本初の純国産の鉄橋である。1923年(大正2年)、市区改正事業に伴い上流側に「弾正橋」が新たに架橋され、旧橋は「元弾正橋」と改称された。この鉄橋は昭和4年(1929年)に江東区内に移設され、八幡橋と改称されて現存している。 1923年(大正2年)に新設された弾正橋は、関東大震災後の復興事業(鍛冶橋通りの建設)によって1926年(大正15年)に架け替えられた。 現代は高速道路を跨ぐ橋。橋上に楓川弾正橋公園(990.57㎡)が整備されている。 なお、弾正橋以南に「楓川」の名を冠した「楓川新富橋公園」があるが、この区間はかつての「楓川・築地川連絡運河」にあたる(築地川参照)。
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