森田必勝の学生長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:42 UTC 版)
10月12日、楯の会の10月例会で持丸博(初代学生長)が正式退会の挨拶をし、持丸の代わりに森田必勝が楯の会の学生長に任命された。論争ジャーナル編集部内に置いていた楯の会事務所も、森田が寄宿している十二社のアパートの住所に移転した。この頃、全学連が三島邸のアポロン像を爆破すると脅して来ることもあった。 10月21日の国際反戦デーの日、昨年と同じく三島と楯の会会員は、左翼デモ(10.21国際反戦デー闘争)の状況を確認し、数名の会員は三島宅に設置した大きな無線通信装置で警察無線を傍受していた。新左翼は機動隊に簡単に鎮圧された。もはや自衛隊の治安出動と斬り込み隊・楯の会の出る幕はなく、憲法改正と自衛隊国軍化への道がないことを認識した。 警察と自衛隊との相違を明確化するため、政府(防衛庁)はこのチャンスにあえて政治的に自衛隊を治安出動すべきであると考えていた三島にとって、政府と自衛隊への失望感と怒りは大きく、新宿の街を歩きながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と自暴自棄になったように叫んでいたという。 10月31日、三島邸で開かれた楯の会の班長会議で、10・21が不発に終わったことで今後の計画をどうするかが討議された。第1班班長の森田は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか」と提案するが、武器の調達の問題や、国会会期中などで実行困難と三島は返答した。 11月3日の15時から、国立劇場屋上で楯の会結成一周年パレードが行われた。皇居に向かって君が代を斉唱し、陸上自衛隊富士学校前校長・碇井準三元陸将を観閲者に迎えて、陸上自衛隊富士学校音楽隊がマーチを演奏する中、白地に兜(楯の会の紋章)を赤く染めた隊旗を小川正洋(第7班班長)が掲げ、学生長の森田必勝が先頭になって、84名の会員が4列縦隊で行進した。 女優の村松英子や倍賞美津子が花束を贈呈し、式の最後は隊長・三島と会員一同で前方の皇居に向かって敬礼した。招待客は107人を予定していたが、実際は出席50人となったものの盛会となった。テント張りの来賓席の顔ぶれには、堤清二、虫明亜呂無、林房雄、近衛忠煇、麻生和子、村松剛、村松英子、倍賞美津子、渥美マリ、神津カンナ、篠山紀信、高橋睦郎、ヘンリー・スコット=ストークスなどもいた。 パレード後の同劇場2階大食堂でのパーティーでは、三島と会員らは、新たに誂えた純白の夏服に着替えていた。東部防衛境界理事長の藤原岩市元陸将、綜合警備保障株式会社専務取締役の三輪良雄元防衛事務次官らが祝辞を述べた後、三島が挨拶に立ち、外国人記者向けに英語でもスピーチした。その後、隊員らはビュッフェスタイルで歓談をする招待客(千宗室、鯨岡阿美子、古波蔵保好など)の間に混じりホスト役となった。 11月16日の佐藤首相訪米阻止闘争も新左翼は再び機動隊に鎮圧されて自衛隊の治安出動は完全に絶望的となった。11月28日、三島は自宅に山本1佐を招いて「最終的計画案」の討議を開くが、山本1佐から具体策が得られず、楯の会の訓練をさらに体系化して長期的構想の下に推進するという抽象的な返答で終わった。 12月8日から4日間、三島は北朝鮮武装ゲリラに対する軍事事情視察のために韓国に赴き、アイヴァン・モリスも同行した。12月中旬に、その報告のため、三島は山本1佐宅を訪問した。 12月22日、楯の会の12月例会が陸上自衛隊習志野駐屯地で開かれ、空挺団で落下傘降下の予備訓練を行なった。飛び降りる前に、出身地、学校名、氏名を叫んでから「初降下、二降下、三降下…」と言いながら飛び降り、落下傘を開くタイミングを計る訓練だった。 訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説いた。これに基づいて、阿部勉(1期生)を班長とする「憲法改正草案研究会」(第10班)が楯の会内に組織されることが決まり、毎週水曜日の夜に3時間討議会を実施することとなった。
※この「森田必勝の学生長」の解説は、「楯の会」の解説の一部です。
「森田必勝の学生長」を含む「楯の会」の記事については、「楯の会」の概要を参照ください。
- 森田必勝の学生長のページへのリンク