まつお‐しげよし〔まつを‐〕【松尾臣善】
松尾 臣善 (まつお しげよし)
氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 松尾 臣善 (まつお しげよし) 明治36.10.20 明治44. 6. 1 兵庫県 |
6代目の日本銀行総裁である松尾臣善は、天保14年(1843年)、姫路の郷士の子として生まれました。長じて任官した宇和島藩での直営事業管理の功績により、明治2年、大阪府の国庫事務取扱いに推挙され、大阪府外国局会計課長等を経て大蔵省に入り、出納局長、主計局長、理財局長等を歴任しました。 明治36年、日本銀行総裁に就任すると、日露戦争(明治37〜38年)の戦費調達および正貨準備の確保を目的とする外債公募の実現に尽力しました。日露講和条約成立後は、戦後の景気過熱の反動を憂慮し、明治39年に高率適用制度(公定歩合に最高・最低を設け、担保の種類等に応じた利率を適用する制度)を新たに採用するなど金融調節手段の多様化を図ったことでも知られています。 このほか当時、日本銀行条例に定められた営業年限の満了(開業日から満30年、営業継続には政府の許可が必要)が迫っていたことから、明治43年に臨時株主総会の決議を経て政府に請願書を提出しました。営業年限を30年延長する許可を受けたのを見届け、翌年、2度目の任期半ばで辞任し、大正5年、73歳で亡くなっています。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(2000年秋季号)』) |
松尾臣善
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松尾 臣善(まつお しげよし、1843年3月6日(天保14年2月6日[1][2][3])- 1916年(大正5年)4月7日[4][5])は、幕末の宇和島藩士、明治期の大蔵官僚。旧姓・中根、幼名・寅之助[2]。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長などを務めた後、第6代日本銀行総裁を務めた。
注釈
- ^ 『平成新修旧華族家系大成 下巻』572頁では長男。
出典
- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成 下巻』572-573頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本近現代人物履歴事典』476頁。
- ^ a b c d e 『財界物故傑物伝 下巻』404-407頁。
- ^ 『松尾臣善』 - コトバンク
- ^ 『財界物故傑物伝 下巻』407頁
- ^ a b c d e f 『歴代日本銀行総裁論』106頁。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』164頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』106-111頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』115-116頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』116-117頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』117-118頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』121頁。
- ^ 『官報』第5005号、明治33年3月12日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
- ^ a b 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
- ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
- ^ 『官報』第3721号「叙任及辞令」1895年11月21日。
- ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
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