東海大学で躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 10:08 UTC 版)
1977年4月に東海大学に進学すると、柔道部監督の佐藤宣践から「まずは目標を持て」と教えられ、中西は(1)71kg級で日本一、(2)大学の団体戦レギュラー獲得、(3)体重無差別で行われる全日本選手権大会への出場、(4)世界選手権大会や夏季五輪で優勝、という4つの目標を自身に課した。当時の東海大学には1学年先輩で全日本王者かとなったばかりの山下泰裕や、中西と入れ替わりで卒業した71kg級の第一人者の香月清人、中西より1つ下の階級の65kg級で世界を目指す柏崎克彦といったOB連中、また世界各国のナショナルチームが出稽古にやって来るなど、練習環境には恵まれていた。「力必達」の佐藤の言葉を念頭に一切の妥協を許さず稽古に打ち込んだ中西は、乱取稽古では好んで重量級の相手にぶつかり、小手先の技ではなく体全体を目一杯に使った文字通り“体当たり”の柔道を心掛けた。他の部員達からはその腕力やスタミナから“鉄人”と恐れられ、気が付けば団体戦のメンバーにも抜擢されていた。 持ち前の粘り強さや勤勉さついて「こればっかりは、厳格で曲がった事が大嫌いだった父親に感謝するしかない」と中西。「練習で、監督がいる時といない時とでは雰囲気が全然違う。自分も先生に見て貰いたいという気持ちはあったが、先生が見ていない時ほど頑張らなければ意味が無いと戒めて練習していた」「自分は天才肌ではないから、少しでも怠けたら直ぐに落ちてしまうのではないかという危機感を常に持っていた」と述懐する。大学3年次にはソ連国際大会の71kg級日本代表に選抜され初めての国際大会に出場。期待よりも不安の方が大きい中での試合だったが難無く勝ち上がり、決勝戦では前年の世界選手権大会の銅メダリストであるソ連のタマズ・ナムガラウリと相対した。試合中の一瞬のスキを突かれる形で豪快な帯取返に敗れはしたものの、当時日本人選手がなかなかソ連国際大会で勝てない中にあって、初出場・準優勝を遂げた事で中西は世界と戦う感触を掴んだという。 それでも大学在学中4年間に(2)の目標しか叶えられなかった中西は、一層柔道に精進すべく1981年に東海大学大学院に進学すると、1年先輩の山下泰裕と一緒の家に住んでトレーニングを積んだ。1982年には4月にはライバルの中右次泰4段と共に71kg級ながら全日本選手権大会に出場し、かねてからの念願を果たすと同時に初戦突破の意地を見せた。同年9月の全日本選抜体重別選手権大会で西田孝宏に競り勝って優勝を飾りついに階級別の全日本王者となると、翌年3月には講道館杯で準優勝、7月の全日本選抜体重別選手権大会では連覇を果たして同階級の第一人者に昇り詰め、10月にモスクワで開催の世界選手権大会の日本代表に選ばれた。 大会では、3年前のソ連国際大会決勝戦でタマズ・ナムガラウリに敗れた時の写真がポスターに使われていたのを見て、余計に闘志が湧いてきたという。3回戦ではそのナムガラウリと対戦し、相手の得意技を封じて小内刈で技ありを奪い雪辱を果たすと、決勝戦では1980年のモスクワ五輪で優勝したイタリアのエツィオ・ガンバを崩上四方固で破って優勝を果たし、遂に世界王者となった。大学入学時に4つの目標を立ててから、実に6年での目標完全達成であった。
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