東北・北海道における初期の造像
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「木喰」の記事における「東北・北海道における初期の造像」の解説
木喰の最初期の造仏として青森県上北郡六戸町の海傳寺(かいでんじ)に伝来する「釈迦如来像」がある。この像は台座を含む総高29.8センチメートル(像高24.8センチメートル)で、彩色は施されない。頭部には螺髪(らほつ)が刻まれず、胸前で両手を衣の内へ納め、印相を明らかにしない。同像は2008年刊行の青森県史叢書『南部の仏像-上北三八地方寺社所蔵文化財調査報告書』に掲載されている。2014年5月14日には全国木喰研究会評議委員の小島梯次のもとへ同像が木喰仏ではないかとする情報が寄せられ、同年7月25日には山梨県立博物館の近藤暁子により小島に『南部の仏像』に同像が掲載されていることが伝えられた。 同年9月25日には小島・近藤による海傳寺の調査が行われた。像容からは木喰仏と判断されないが、赤外線撮影により背面に墨書銘が確認され、「木食」の署名も見られず年代も不詳であるが、初期の木喰仏に見られる「行道」がデザイン化された花押が確認され、木喰仏と判断された。本像は東北地方におけるはじめての木喰仏の発見でもあった。 『納経帳』に拠れば、木喰は安永7年(1778年)5月29日に青森県三戸郡の神宮寺(櫛引八幡宮)を訪ね、同年6月5日にはむつ市恐山の円通禅寺を訪ねた後、北海道へ渡っており、海傳寺はこの途上に位置している。なお、北海道から本州へ戻った後は西郡方面を通過しているため、渡道以前の像と判断されているが、小像であることから移座している可能性も指摘される 海傳寺の像に続き確認できる最初期の仏像は安永8年、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものである。木喰は生涯に佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を遍歴した。 北海道における初期の作例として二海郡八雲町の門昌庵に伝来する諸像がある。これらは従来、初期の木喰仏とされていたが、2004年(平成16年)近年山梨県立博物館による赤外線カメラを用いた調査において5体の像の背銘に記されている六字名号の書体と署名から、弟子の白道の作例であると判明した。 また、北海道古平郡古平町字浜町に所在する日蓮宗寺院・正隆寺に伝来する子安観音菩薩像も作風から白道作の可能性が指摘されていたが、2016年(平成28年)には近藤暁子による調査が実施され、像背銘と造形的特徴から木喰作であることが判明した。この像は戦後の1976年(昭和51年)に正隆寺近在の青山家により奉納されたもので、青山家は北海道の塩谷(小樽市)出身で祖先は松前氏家臣であったという。
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