東北北海道における初期の造像とは? わかりやすく解説

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東北・北海道における初期の造像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:03 UTC 版)

木喰」の記事における「東北・北海道における初期の造像」の解説

木喰最初期造仏として青森県上北郡六戸町の海傳寺(かいでんじ)に伝来する釈迦如来像」がある。この像は台座を含む総高29.8センチメートル像高24.8センチメートル)で、彩色施されない頭部には螺髪(らほつ)が刻まれず、胸前両手を衣の内へ納め印相明らかにしない。同像は2008年刊行青森県叢書南部仏像-上北三八地方寺社所蔵文化財調査報告書』に掲載されている。2014年5月14日には全国木喰研究会評議委員小島次のもとへ同像が木喰仏ではないかとする情報寄せられ同年7月25日には山梨県立博物館近藤暁子により小島に『南部仏像』に同像が掲載されていることが伝えられた。 同年9月25日には小島近藤による海傳寺の調査が行われた。像容からは木喰仏判断されないが、赤外線撮影により背面墨書銘が確認され、「木食」の署名見られ年代不詳であるが、初期木喰仏見られる行道」がデザイン化され花押確認され木喰仏判断された。本像は東北地方におけるはじめての木喰仏発見でもあった。 『納経帳』に拠れば木喰安永7年1778年5月29日青森県三戸郡神宮寺櫛引八幡宮)を訪ね同年6月5日にはむつ市恐山円通禅寺訪ねた後、北海道へ渡っており、海傳寺はこの途上位置している。なお、北海道から本州戻った後は西郡方面通過しているため、渡道以前の像と判断されているが、小像であることから移座している可能性指摘される 海傳寺の像に続き確認できる最初期仏像安永8年61歳の時、蝦夷地北海道南部)で制作したのである木喰生涯佐渡島4年間、日向宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つ土地長く留まることなく全国遍歴した。 北海道における初期作例として二海郡八雲町門昌庵伝来する諸像がある。これらは従来初期木喰仏とされていたが、2004年平成16年近年山梨県立博物館による赤外線カメラ用いた調査において5体の像の背銘に記されている六字名号書体署名から、弟子白道作例であると判明したまた、北海道古平郡古平町浜町所在する日蓮宗寺院正隆寺伝来する子安観音菩薩像作風から白道作の可能性指摘されていたが、2016年平成28年)には近藤暁子による調査実施され、像背銘と造形的特徴から木喰作であることが判明した。この像は戦後1976年昭和51年)に正隆寺近在青山家により奉納されたもので、青山家北海道塩谷小樽市出身祖先松前氏家臣であったという。

※この「東北・北海道における初期の造像」の解説は、「木喰」の解説の一部です。
「東北・北海道における初期の造像」を含む「木喰」の記事については、「木喰」の概要を参照ください。

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