村井弦斎との結婚と「対岳楼」での暮らし
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1900年(明治33年)7月5日、小説家で報知新聞社社員の村井弦斎(本名・寛)と結婚。1901年(明治34年)には、のちに登山家となる長女・村井米子が生まれている。村井夫妻はこのほか、5人の子供に恵まれた。 結婚当初、夫妻は三田に住んでいたが、結婚翌年の1901年からは神奈川県の大磯町にあった後藤家の別荘、さらに1902年(明治35年)には小田原市へと移り住んだ。この間、夫・弦斎の執筆活動に深く関わり、出版された弦斎の美食小説『食道楽』は、当時としては破格のベストセラーとなった。その印税で1904年(明治37年)に平塚市に1万6000坪余りの広大な敷地を購入し、この地に居を構えた。 平塚市の自宅は富士山がよく見え、「対岳楼」と名付けられた。家屋は大邸宅というほどではなかったが、広大な土地に果樹菜園、畜舎、花壇などを配したほか、全国から名産品が持ち込まれ、二人はともに食と健康について実験研究を行った。例えば、果樹園では桃、柿、ビワ、イチジク、梅、ザクロ、菜園では大根、キュウリ、ナス、パセリ、セロリ、レタス、アスパラガス、トマトのほかアーティチョークなどの珍しい野菜も作っており、畜舎では鶏、ウサギ、ヤギなどを育てていた。油も埼玉で絞らせたごま油、高野山のカヤ油、鹿児島の山茶花油、大島の椿油、外国から輸入したサラダ油といった具合にいろいろなものを取り寄せて試していた。 弦斎は『食道楽』で美食家として全国にその名が知られていたため、対岳楼には様々な人々の往来があり、著名な料理人などが集まって珍味を味わう食のサロン「食道楽会」も開かれた。また、村井多嘉子は、味の素やカルピスなど全国の食物関係の新作品はほとんどというほど村井家が相談を受けていたと主張している。対岳楼に訪れる多様な客人を手料理でもてなしたのが多嘉子であった。
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