木造釈迦如来立像(重要文化財)
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木造釈迦如来立像
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国宝。本像はいわゆる「三国伝来の釈迦像」「生身の釈迦」である。北宋時代の雍熙2年(985年)、仏師張延皎および張延襲の作。像高160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示している。その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる。当時、宋に滞在していた奝然は雍熙元年(984年)、当時の都であった開封(汴京)で優填王造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し、翌雍熙2年(985年)、台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳の蓋板)裏面には張延皎および張延襲という仏師の名が刻まれている。古代インドの優填王が釈迦の在世中に造らせたという釈迦像の中国への伝来については、北伝ルートと南伝ルートの2つの説がある。『釈迦堂縁起』は、当寺の釈迦像は鳩摩羅琰(くまらえん)(英語版)が中央アジアの亀茲国に将来したのちに、前秦の苻堅によって奪われて中国にもたらされたとする北伝ルート説をとっている。 本像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめとして日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦如来」と呼ばれる。 像とともに国宝に指定されている像内納入品は、1953年(昭和28年)に像の背面にある背板(内刳部を蓋状に覆う板)が外れそうになり、隙間から北宋時代の貨幣がこぼれ落ちてきたことに端を発する。翌1954年(昭和29年)に総合調査を実施した際に納入品が発見された。この納入品には、造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画などとともに、内臓の模型がある。医学史の資料としても注目されるこの内臓模型は、台州妙善寺の比丘尼清暁の風疾治療を祈願して納入されたもので、世界最古の絹製模型である。それぞれあるべき位置に納められていた11個の臓腑は、中国古来の五臓六腑説とはやや異なる点があり、この内臓模型が中国医学に基づくものか否かについては諸説ある。 奝然の遺品としては、生誕仮名書付(臍の緒書き、最古の平仮名文字といわれる)や手形を捺した文書なども発見された。(納入品の細目は後出。)
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