最初のスリーピート
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「マイケル・ジョーダン」の記事における「最初のスリーピート」の解説
翌1990-91シーズン、ブルズはチーム史上最多の61勝を挙げる。ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった(ただし、それでも得点王となっていた)。 プレーオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。 翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の67勝を挙げ、再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。ブレイザーズは、1984年のドラフトで全体2位指名権を持ちながらジョーダンを指名しなかった。後にジョーダンは「あの時ブレイザーズに指名されないで本当によかった」と冗談交じりに語っている。 次の1992-93シーズンは、ブルズは57勝と前シーズンより10勝減らしたが、プレーオフでは再びNBAファイナルに進出した。ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、ジョーダンの親友でもありチームのエース、チャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれた。レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。このシリーズで平均41得点(NBAファイナル歴代最高)をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。 1980年代末より「3連覇」を意味する「スリーピート」という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。
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最初のスリーピート
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「スコッティ・ピッペン」の記事における「最初のスリーピート」の解説
それでもピストンズを7戦目まで追い詰めたブルズの成長は明らかで、スコッティもチームの躍進を支えた選手の1人だった。毎年平均20点前後を記録し、ジョーダンに次ぐチームのセカンド・スコアラーとなっただけでなく1991年にピッペンはオールディフェンシブセカンドチームに選出され、リーグ有数の好ディフェンダーであることを証明した。リバウンドやアシストも1試合平均6~7個を記録し、NBA有数のオールラウンダーであることは明らかだった。そして、この年のプレイオフ、精神的にも成長したピッペンの活躍もあってシカゴ・ブルズはカンファレンス・ファイナルではピストンズを4勝0敗で破り、ブルズは悲願のNBAファイナル進出を果たす。かつての王者ロサンゼルス・レイカーズと対戦したファイナルのシリーズでは当初、ジョーダンがマジック・ジョンソンをガードしたが、攻守に渡っての負担もあってブルズは第1戦に敗れてしまう。第2戦からはコーチのフィル・ジャクソンは若いスコッティ・ピッペンにマジック・ジョンソンのガードを託す大胆な作戦を採った。ピッペンはマジックを長い腕を生かしてガードして苦しめ、思うようにアシストパスができないように優れたディフェンスを見せる。その一方で最終戦となった第5戦ではトリプル・ダブルを達成するなど攻撃面でも大活躍し、第2戦からはブルズは4連勝して一気に初の優勝を決めた。この時からピッペンはジョーダンの単なるチームメイトの一人ではなく、リーグでも有数の実力者であることが確固たるものとなった。 同じ1991年、スコッティは以後チームを去るまで続く長期契約をブルズと交わした。このことが後年チームのフロントとの間に確執を生む遠因になる。やっと優勝を達成し、実力を証明はしたが、背中の故障がピッペンに不安をもたらしていた。自分の選手生命はもうすぐ終わってしまうのではないかという予感に悩まされていたピッペンは一時の大金よりも長期の保証を求めて最長7年間で当時としては最高額近い契約(年額200万ドル程度と言われている)を結んだが、当時のNBAは世界的な人気爆発の時期にあり、選手の年俸は年々倍増に近い金額で増え続けていた。ブルズの首脳陣からもこのような契約を結ぶと後悔することになると注意されたがピッペンは聞き入れなかった。まもなく、ブルズ首脳陣の言葉どおり、NBAの一流選手は年俸1000万ドル近い契約を結ぶ選手が続出し、ピッペンの年俸は7年後にはリーグの平均以下にまでなってしまう。その後本人は何度も契約の撤回を求めたがチームは応じようとしなかった。また、ブルズでも年俸がピッペンより高いのに成績の低い選手まで現れ、ピッペンがそれをあからさまに非難するなど本人にも周囲にも多くの確執をもたらした原因となった。 1992年、スコッティはオールNBAセカンドチームとオールNBAディフェンシブファーストチーム入りを果たし名実ともにリーグのトップクラスの選手と認められた。このシーズン、シカゴ・ブルズは67勝15敗というリーグ最高の成績でシーズンを終える。プレイオフで一時ニューヨーク・ニックスのラフプレーに悩まされるシーンもあったが最終戦で撃破してNBAファイナルに進出、ポートランド・トレイルブレイザーズを4勝2敗で下して2連覇を果たす。翌1992-93シーズンはフェニックス・サンズにホームコートアドバンテージを奪われたものの敵地で6戦目に勝利し、「スリーピート(3連覇)」を成し遂げた。これはNBAでも1960年代以来となる歴史的な快挙だった。
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