晩年のゲーテとは? わかりやすく解説

晩年のゲーテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:33 UTC 版)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の記事における「晩年のゲーテ」の解説

1806年イエナ・アウエルシュタットの戦い勝利したナポレオン軍ヴァイマル侵攻したこの際酔っ払ったフランス兵ゲーテ宅に侵入して狼藉働いたが、未だ内縁の妻であったクリスティアーネが駐屯していた兵士力を合わせてゲーテ救ったゲーテはその献身的な働き心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じ20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めたカール・アウグスト公が結婚保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれた。 また1808年ナポレオン号令によってヨーロッパ諸侯エアフルト集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かいナポレオン歴史的対面果たしている。『若きウェルテルの悩み』の愛読者であったナポレオンゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫び感動表した。 晩年のゲーテは腎臓病み1806年より頻繁にカールスバート湯治出かけるうになる。ここで得た安らぎ様々な交流晩年創作原動力となった1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト第1部がようやく完成しコッタ出版全集収録される形で発表された。1807年にはヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネット書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女悲劇的な恋愛描いた小説親和力』(1809年)が生まれている。またこの年から自叙伝詩と真実』の執筆開始し翌年には色彩研究をまとめた『色彩論』を刊行している。1811年詩と真実』を刊行1816年、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ1817年30年前イタリア旅行回想しつつ書いたイタリア紀行』を刊行した最晩年ゲーテ文学世界的な視野を持たねばならない考えるようになり、エマーソンなど多く国外作家から訪問を受け、バイロンに詩を送りユーゴースタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエント文学興味持ってコーランハーフェズの詩を愛読した。このハーフェズ憧れてみずから執筆した詩が『西東詩集』(1819年)である。 1821年ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代刊行。『修業時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性否定し諦念」の徳を説いている。またこの年ゲーテマリーエンバート湯治場でウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳少女最後熱烈な恋をした。1823年にはアウグスト公を通じて求婚する断られており、この60歳年下少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。 1830年10月息子アウグスト・フォン・ゲーテが、旅先ローマにて病没先立たれるゲーテ死の直前まで『ファウスト 第2部完成精力注ぎ完成の翌1832年3月22日にその多産生涯終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉伝えられている。墓はヴァイマル大公墓所ドイツ語版)(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラー隣り合わせになっている

※この「晩年のゲーテ」の解説は、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の解説の一部です。
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