晩年のサーモピレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 02:59 UTC 版)
サーモピレーが、初めて茶を積んでロンドンに入港した日から1ヶ月半後、10年の工期を費やしたスエズ運河が開通した。スエズ運河を汽船で通れば、イギリスと中国は2ヶ月以内の日数で結ばれてしまうようになっていた。航走速度では決して汽船に負けないティークリッパーたちだったが、ほぼ無風のスエズ運河は、帆船では通過することができないのである。1870年代になると、ティークリッパーの時代は急速に終焉を迎えていった。 サーモピレーは、1878年を最後に茶輸送専従だった運用からはずれ、1881年に最後の茶輸送を行った後、オーストラリアからの羊毛輸送につくことになった。ライバルだったカティーサークなども同様に、ティークリッパーはこの航路に配転されることが多くここでも船同士での競争は起こったが、この航路も長くは続かなかった。羊毛輸送に関しては、いくら早く着いたところでさしたるプレミアも付かず、より確実な運航スケジュールが期待できる汽船が配船されれば、そちらのほうがより都合がいいのである。 1889年には、サーモピレーはホワイトスターラインを離れ、ロンドンのW.ロス・アンド・カンパニー社(W. Ross & Co)に売却され、ついで、1890年には、カナダ・モントリオールのレッドフォード社(Redford)へ売船された。カナダではアジアとカナダ西海岸を結ぶ航路で運航され、この航路での積荷は、もっぱらアジアからの米だった。 カナダ時代には、ミズンマストの横帆が取り外され、それまでの3本マストシップ型から、3本マストバーク型に帆装形式が変更されていたが、16ノット(時速約30km)で走る汽船エンプレス・オブ・インディアと3日間に渡って並走してみせたり、1893年にはビクトリア(カナダ)から、香港まで23日で航走する記録を残すなど、そのスピードに衰えはなかったようだ。
※この「晩年のサーモピレー」の解説は、「サーモピレー」の解説の一部です。
「晩年のサーモピレー」を含む「サーモピレー」の記事については、「サーモピレー」の概要を参照ください。
- 晩年のサーモピレーのページへのリンク