時事新報時代と雑誌『太陽』
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「前田蓮山」の記事における「時事新報時代と雑誌『太陽』」の解説
大正3年(1914年)2月。毎日新聞で「議会の闘将」と題し、犬養毅、尾崎行雄などに加え、政友会の実力者原敬の人物評論を執筆、評判を得る。経営が報知から山本実彦(後改造社社長)に移るのを期に退社、フリージャーナリストを目指す。雑誌『太陽』編集長浅田江村より原敬について論評に依頼を受け、世に出るチャンスととらえ「今日主義の原敬」と題する4百字60枚の原稿を書き上げ6月号に掲載となる。この原敬論は早速評判となり、時事新報と読売新聞から入社の誘いがきた。そこで当時日本一の新聞社であった時事新報に「太陽」に毎号書いてもよいという条件付きで入社を承諾する。時事新報に入ると、早速三党首領(原、加藤、犬養)の比較論を書いた。子爵秋元興朝の紹介で、原敬を訪問した。対談したのはこれが最初である。 大正4年(1915年)「逐鹿閑話」という選挙にまつわる話を連載、 また「人物の印象」という人物評論も連載した。一方雑誌『太陽』には、「党首月旦」「政党史論」などを毎月執筆、『中央公論』にも「加藤外相論」を執筆した。大正5年(1916年)になると『太陽』に「政界の表裏」を無名隠士の名で連載が開始、政界話をご隠居が語ると言うスタイルを生み出し、これが評判となりその後昭和2年(1927年)まで続くヒットとなった。 また、時事新報で「政変物語」を連載し、この連載を翌大正6年(1917年)に出版、徳富蘇峰、三宅雪嶺、石河幹明の推薦文を得た。政界のウラ話の情報は勿論政友会諸氏が情報源であったが、政党情報以外については枢密顧問官伊東巳代治が情報源であった。伊東巳代治は大の新聞記者嫌いで記者をめったに寄せ付けなかった。蓮山は同郷(長崎)のよしみということで近づき、絶大なる信頼を得た。大正7年(1918年)原敬内閣が初の政党内閣、平民宰相が誕生した。蓮山は原邸には「木戸御免」で毎日出入りできる程になっていた。大正デモクラシーの社会にあって開放的で華美な風潮が流れる中、大正8年(1919年)「社会の黴」なる社会批評を夕刊に連載し、政治評論に加え社会評論家としても認知された。大正10年(1921年)10月原敬、加藤高明、犬養毅の人物評論「三頭首領」を出版。大正10年(1921年)11月、原敬は東京駅にて刺殺された。
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