時事新報時代と雑誌『太陽』とは? わかりやすく解説

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時事新報時代と雑誌『太陽』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/21 03:58 UTC 版)

前田蓮山」の記事における「時事新報時代と雑誌『太陽』」の解説

大正3年1914年2月毎日新聞で「議会闘将」と題し犬養毅尾崎行雄などに加え政友会実力者原敬人物評論を執筆評判を得る。経営報知から山本実彦(後改造社社長)に移るのを期に退社フリージャーナリスト目指す雑誌太陽編集長浅田江村より原敬について論評依頼を受け、世に出るチャンスととらえ「今日主義原敬」と題する4百字60原稿書き上げ6月号に掲載となる。この原敬論は早速評判となり、時事新報読売新聞から入社誘いがきた。そこで当時日本一新聞社であった時事新報に「太陽」に毎号書いてもよいという条件付き入社承諾する時事新報に入ると、早速三党首領(原、加藤犬養)の比較論を書いた子爵秋元興朝紹介で、原敬訪問した対談したのはこれが最初である。 大正4年1915年)「逐鹿閑話」という選挙まつわる話を連載、 また「人物の印象」という人物評論も連載した一方雑誌太陽』には、「党首月旦」「政党史論」などを毎月執筆、『中央公論』にも「加藤外相論」を執筆した大正5年1916年)になると『太陽』に「政界表裏」を無名隠士の名で連載開始政界話をご隠居が語ると言うスタイル生み出し、これが評判となりその後昭和2年1927年)まで続くヒットとなったまた、時事新報で「政変物語」を連載し、この連載を翌大正6年1917年)に出版徳富蘇峰三宅雪嶺石河幹明推薦文得た政界ウラ話情報は勿論政友会諸氏情報源であったが、政党情報以外については枢密顧問官伊東巳代治情報源であった伊東巳代治大の新聞記者嫌いで記者をめったに寄せ付けなかった。山は同郷長崎)のよしみということ近づき絶大な信頼得た大正7年1918年原敬内閣が初の政党内閣平民宰相誕生した山は原邸には「木戸御免」で毎日出入りできる程になっていた。大正デモクラシー社会にあって開放的華美な風潮流れる中、大正8年1919年)「社会の黴」なる社会批評夕刊連載し政治評論加え社会評論家として認知された。大正10年1921年10月原敬加藤高明犬養毅人物評論「三頭首領」を出版大正10年1921年11月原敬東京駅にて刺殺された。

※この「時事新報時代と雑誌『太陽』」の解説は、「前田蓮山」の解説の一部です。
「時事新報時代と雑誌『太陽』」を含む「前田蓮山」の記事については、「前田蓮山」の概要を参照ください。

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