時事新報社入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:58 UTC 版)
「武藤山治 (実業家)」の記事における「時事新報社入社」の解説
1932年(昭和7年)に時事新報社に入社する。関東大震災後に経営赤字に陥っていた同社で「思ふまま」及び「月曜論説」の執筆を担当して、経営黒字に乗せることに成功した。金子直吉・藤田謙一らの帝人株のインサイダー取引に着眼し、鳩山一郎・中島久万吉・三土忠造ら政界関係者と「番町会」(郷誠之助・正力松太郎・小林中・河合良成・長崎英造・永野護)の暗躍を次々とスクープする。 出し抜かれた鈴木商店の金子がからくりを『時事新報』に口外し始め、「番町会を暴く」の連載を開始した。「シーメンス事件」以来の大型社会問題へと発展していき、「帝人事件」がついに明るみに出ることになった。しかし、この事件の主任検事である黒田越朗が公判中に殉職するなど、複雑怪奇な事件として官僚の暗部が浮き彫りとなった。 だが、帝人事件の疑惑報道の直後の3月9日に北鎌倉台山(当時大船町山ノ内)の自邸を出たところで福岡県出身の元外交員で失業者の福島新吉に銃撃され5発の弾丸を受け、翌日死去した。武藤をかばった書生の青木茂は銃弾を受けて即死した。一説には、福島が番町会系の人物や弁護士と接触していたことからバックに番町会がいたとか、火葬場はすべて公営とすべきという福島の意見に同感し新聞に掲載したことの和解金をめぐるいざこざがあったと言われるが、福島がその場で自殺したため動機は未だ不明となっている。また福島は他殺という疑惑も存在した。
※この「時事新報社入社」の解説は、「武藤山治 (実業家)」の解説の一部です。
「時事新報社入社」を含む「武藤山治 (実業家)」の記事については、「武藤山治 (実業家)」の概要を参照ください。
- 時事新報社入社のページへのリンク