佐原篤介とは? わかりやすく解説

佐原篤介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/05 20:32 UTC 版)

佐原 篤介(さはら とくすけ、1874年明治7年)2月4日 - 1932年昭和7年)7月17日)は、明治期のジャーナリスト。諱は希元、筆名は滬上槎客。勲五等瑞宝章受賞。

経歴

東京生まれ。東京府立中学、神田共立学校を経て、1893年(明治26年)末に慶應義塾を卒業。同大学部法科を中退、代言人増島六一郎の事務員を経て、1899年(明治32年)1月に時事新報社入社。翌月、同社及び大阪毎日新聞の通信員として上海へ赴任した(のち時事・東京朝日・毎日電報・大阪毎日・大阪朝日・大阪時事新聞の通信員兼務)。その後、上海にてチャイナ・ガゼット社(China Gazette)に入社、さらに上海マーキュリー新聞社(Shanghai Mercury)で編集長を務めた他、邦字新聞『上海日報』に滬上槎客の筆名で「上海だより」を連載。[1]

外務省の推薦で新投された国際通信社の上海支社主任となり、御幡雅文と一時期、東亜同文書院で英語を教え、東亜会にも関係し、1926年大正15年)には満州に移り、奉天の盛京時報社社長として時事問題を論じ、満州国の言論界で重きを成した。

日露戦争中は上海を中心として特殊任務に従事、バルチック艦隊が東航するに至りその進路を諜知して、勲六等瑞宝章を受賞。1914年(大正3年)の日独戦争の際にも特殊任務に従事。従六位を贈られ、勲五等瑞宝章を授けられた。

1929年1931年(昭和4・6年)には民間の国際会議「太平洋会議」に参加(第3回京都会議・第4回杭州-上海会議)[2]

没後、遺族の意向により、上海時代からの収集書籍(図書5027冊・雑誌104冊)が奉天図書館に寄贈され、「佐原文庫」として保管された[3]

脚注

  1. ^ 慶応義塾出身名流列伝
  2. ^ 山岡道男「太平洋問題調査会関係資料 : 太平洋会議参加者名簿とデータ・ペーパー一覧」早稲田大学アジア太平洋研究センター(研究資料シリーズ1)、2010年。
  3. ^ 時代文化研究会 編刊『時代文化記録集成 後編』1935年、80頁。

参考文献





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