佐原篤介
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佐原 篤介(さはら とくすけ、1874年(明治7年)2月4日 - 1932年(昭和7年)7月17日)は、明治期のジャーナリスト。諱は希元、筆名は滬上槎客。勲五等瑞宝章受賞。
経歴
東京生まれ。東京府立中学、神田共立学校を経て、1893年(明治26年)末に慶應義塾を卒業。同大学部法科を中退、代言人増島六一郎の事務員を経て、1899年(明治32年)1月に時事新報社入社。翌月、同社及び大阪毎日新聞の通信員として上海へ赴任した(のち時事・東京朝日・毎日電報・大阪毎日・大阪朝日・大阪時事新聞の通信員兼務)。その後、上海にてチャイナ・ガゼット社(China Gazette)に入社、さらに上海マーキュリー新聞社(Shanghai Mercury)で編集長を務めた他、邦字新聞『上海日報』に滬上槎客の筆名で「上海だより」を連載。[1]
外務省の推薦で新投された国際通信社の上海支社主任となり、御幡雅文と一時期、東亜同文書院で英語を教え、東亜会にも関係し、1926年(大正15年)には満州に移り、奉天の盛京時報社社長として時事問題を論じ、満州国の言論界で重きを成した。
日露戦争中は上海を中心として特殊任務に従事、バルチック艦隊が東航するに至りその進路を諜知して、勲六等瑞宝章を受賞。1914年(大正3年)の日独戦争の際にも特殊任務に従事。従六位を贈られ、勲五等瑞宝章を授けられた。
1929年・1931年(昭和4・6年)には民間の国際会議「太平洋会議」に参加(第3回京都会議・第4回杭州-上海会議)[2]。
没後、遺族の意向により、上海時代からの収集書籍(図書5027冊・雑誌104冊)が奉天図書館に寄贈され、「佐原文庫」として保管された[3]。
脚注
参考文献
- 三田商業研究会 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年6月、773-774頁 。
- 黒龍会編『東亜先覚志士記伝』黒龍会出版部、1933年-1936年。
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