佐原盛純とは? わかりやすく解説

佐原盛純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 23:41 UTC 版)

佐原 盛純(さはら もりずみ、天保6年頃〈1835年頃〉 - 1908年明治41年〉12月4日)は、江戸時代末期から明治時代学者役人教育者佐原貞一とも称した。号は豊山、晩年は蘇楳。旧名は金上佐輔(字は業夫)、金上盛備の子孫とされる[1][2]明治維新当時は上野国吉井藩侍講藩学教授[3]。生年については諸説あり[4]


  1. ^ 『手作り会津史』「幕末渡欧の会津人」参照。
  2. ^ a b c d e f g 宮崎十三八『私の城下町―会津若松』247-248頁(正法寺)。
  3. ^ 歴史解説書のなかには、佐原を「会津藩士」とし、会津藩士として初の海外渡航者と解説する例もあるが、「真実は会津藩の武士ではない」(宮崎十三八『私の城下町―会津若松』)。
  4. ^ 宮崎十三八『私の城下町―会津若松』では、旧暦・天保7年2月10日生まれとされる。
  5. ^ a b c d 『若松市史 下巻』574-575頁。
  6. ^ a b c 『群馬県多野郡誌』98-99頁(佐原貞一)。
  7. ^ 国立公文書館所蔵「元吉井藩士族佐原貞一外四名取調違ニ付平民ヘ帰籍可為致旨御達」及び「吉井藩士族卒調査上相違ノ者ノ貫属ヲ除名ス」参照。
  8. ^ 『司法省日誌』第23号、1875年。
  9. ^ 藤田弘道「府県裁判所設置の一齣:足柄裁判所の場合」『法学研究』46巻5号、慶応義塾大学法学研究会、1973年(40-72頁)。
  10. ^ 『司法省日誌』第78号、1875年。
  11. ^ a b あいづ人物伝(佐原盛純)”. 会津若松市. 2023年12月25日閲覧。
  12. ^ 『会津中学校五十周年史』20-21頁。
  13. ^ 「碩学老儒等ノ徳望アリテ修身科ノ教授ヲ善クスル者(中略)学力ノ検定ヲ要セス特ニ該学科教授免許状ヲ授与シテ訓導トナスコトヲ得」
  14. ^ 『官報』1884年12月6日(学事欄:小学修身科特許教員)。
  15. ^ a b 『会津中学校五十周年史』70-71頁
  16. ^ a b 文部省総務局編刊『師範学校・中学校・高等女学校教員免許台帳抄 明治18年乃至36年』1903年。
  17. ^ 『会津中学校五十周年史』315頁
  18. ^ 『東京帝国大学一覧』明治30-31年、明治31-32年、明治32-33年版を参照。
  19. ^ 国立公文書館所蔵「大阪府立岸和田中学校長坪井仙次郎外十七名叙位ノ件」1907年10月21日(叙位裁可書)添付の佐原盛秀履歴書に依る。なお、佐原盛秀はその後、大分県立竹田中学校・栃木県立工業学校・県立宇都宮中学校等へ赴任した(職員録を参照)。
  20. ^ 創立七十周年記念誌
  21. ^ 会津若松市「会津若松市歴史的風致維持向上計画」2023年、120頁。
  22. ^ 『会津中学校五十周年史』巻頭口絵より。十七回忌当初、白虎隊の自刃者は16名とされ、1890年に19名とされたことから、以下の詩は1890年以降の改訂版。


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