映画製作部門の大幅縮小
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:57 UTC 版)
1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少は更に深刻な状況となり、大映は倒産、日活はポルノ会社に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸)と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた。ただし、専務取締役の藤本をトップに据えた東宝映画ですら年に数本、他は芸苑社と東宝映像が年1、2本しか稼働せず、事実上この分社化をもって東宝の自社製作体制は幕をおろすことになる。不採算作品が多くリスクの高い製作部門の停止に伴い、外部からの買取作品・委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する形に転換。 事実上、映画製作会社の看板を降ろし、配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため、同業他社のようなポルノ映画やヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、「東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心」といったイメージを死守したこと自体は、現在の東宝の繁栄の伏線となっている。しかし予算的には非常にタイトとなり、今日でも評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは二本同撮で作られ、ゴジラ映画は音楽や着ぐるみの使い回しが目立つようになった。 映画製作本数が急激に減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。ただし、70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映や円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注したり、スタジオを持たない円谷プロの場合などは東京美術センターなどの傍系スタジオを使用するケースが多かった。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所(勝プロダクション作品など)や日活撮影所(石原プロモーション、ホリプロ作品など)で製作するものが増えたため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。大ベテランの岡本喜八、堀川弘通両監督を解雇した1977年を一時代の終焉と見ることもできる。 それでも1980年代半ばまでは、東宝シンデレラコンテスト出身の東宝芸能所属タレントで人気アイドルだった斉藤由貴や沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど、独立プロダクション程度の活動は継続していた。そしてこの時期からアニメーションの製作にも関与するようになる。一方で、1969年 - 1978年に東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。 また、この時期はバブル期であり、そのためか日劇、渋谷東宝会館、日比谷映画劇場、有楽座、梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させている。
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