映画作家時代
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日活から独立し、「牧野教育映画製作所」とその「等持院撮影所」を開いたばかりの牧野省三は金森万象をマネージャーに、宮崎安吉キャメラマン、沼田紅緑監督らとともに準備を整え、いよいよ現代劇製作に取り掛かるにあたり、大活の文芸顧問だった谷崎潤一郎に相談して、江川宇禮雄、渡邊篤、紅澤葉子、横田豊秋、内田吐夢、井上金太郎、二川文太郎、岡田時彦ら、横浜から20代の若者たちを招いた。獏もその一人で、それぞれ皆がタイトル書きや台本の写しを行っていた。 この俳優たちは牧野や金森万象、沼田紅緑の監督する「教育映画」につぎつぎ主演し、獏も同年、牧野の息子である牧野正唯(当時子役、のちのマキノ雅弘)を主演に『小さな勝利者』を撮る。翌1922年には内田と紅沢を主演に『心の扉』を撮ったが、次作の『火華』の撮影中に牧野ともめて退社、同作は衣笠貞之助が完成した。退社後の獏は、1923年(大正12年)7月22日に公開された大洞元吾監督の現代劇『愛の未亡人』(日活向島撮影所)に脚本を提供したのを最後に、「獏与太平」名義で作品を発表しなくなる。 1924年(大正13年)、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社、「古海卓二」名で監督作を発表、同年中に芦屋市の帝国キネマ芦屋撮影所に転じて問題作、話題作を連打する。1925年(大正14年)1月14日の帝国キネマの内紛から、石井虎松をはじめとする芦屋撮影所の全従業員が辞職、同撮影所は機能停止するという事件があった。石井らの「アシヤ映画製作所」の設立に参加し、監督作を発表、半年で正常化した帝国キネマに全従業員がほぼ原職復帰する。 1925年(大正14年)、やはり帝キネを退社、俳優高堂国典、作家金子洋文、画家小生夢坊らと「第一線映画連盟」を設立、自主製作・配給を目指す。運動は1年で挫折、似通った志を持つ東京の高松豊次郎に招かれ、高松の「タカマツ・アズマプロダクション」で「第一線映画連盟」の俳優陣、撮影の玉井正夫らを引き連れて『勤王』を撮った。その後は、スタッフ・キャストを引き連れて阪東妻三郎プロダクション、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所、河合映画社へ転々とする。1929年(昭和4年)2月、「古海卓二プロダクション」を設立、『国聖大日蓮』を監督後、5月に渡欧。 帰国後は右太プロへ戻るが、1931年(昭和6年)に労働争議を起こし、解雇される。東活映画社に移るが1932年(昭和7年)の同社の解散で、阪妻プロに戻る。その間の1934年に妻の紅沢と離婚、さらに極東映画社、甲陽映画(配給千鳥興業)へ移り「園池成男」名で監督をするが、1937年(昭和12年)の『ボーイスカウト』を最後に43歳で映画界を去った。
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