映画作家時代とは? わかりやすく解説

映画作家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 08:32 UTC 版)

古海卓二」の記事における「映画作家時代」の解説

日活から独立し、「牧野教育映画製作所」とその「等持院撮影所」を開いたばかりの牧野省三金森万象マネージャーに、宮崎安吉キャメラマン沼田紅緑監督とともに準備整え、いよいよ現代劇製作に取り掛かるにあたり大活文芸顧問だった谷崎潤一郎相談して江川宇禮雄渡邊篤紅澤葉子横田豊秋内田吐夢井上金太郎二川文太郎岡田時彦ら、横浜から20代若者たち招いたもその一人で、それぞれ皆がタイトル書き台本写し行っていた。 この俳優たちは牧野金森万象沼田紅緑監督する教育映画」につぎつぎ主演し同年牧野息子である牧野正唯当時子役、のちのマキノ雅弘)を主演に『小さな勝利者』を撮る。翌1922年には内田紅沢主演に『心の扉』を撮ったが、次作の『火華』の撮影中に牧野ともめて退社同作衣笠貞之助完成した退社後のは、1923年大正12年7月22日公開され大洞元吾監督現代劇『愛の未亡人』(日活向島撮影所)に脚本提供したのを最後に、「獏与太平名義作品発表しなくなる。 1924年大正13年)、兵庫県西宮市甲陽園東亜キネマ甲陽撮影所入社、「古海卓二」名で監督作発表同年中に芦屋市帝国キネマ芦屋撮影所転じて問題作話題作を連打する1925年大正14年1月14日帝国キネマ内紛から、石井はじめとする芦屋撮影所の全従業員辞職、同撮影所機能停止するという事件があった。石井らの「アシヤ映画製作所」の設立参加し監督作発表半年正常化した帝国キネマに全従業員がほぼ原職復帰する1925年大正14年)、やはり帝キネ退社俳優高堂国典作家金子洋文画家小生夢坊らと「第一線映画連盟」を設立自主製作配給目指す運動1年挫折似通った志を持つ東京高松豊次郎招かれ高松の「タカマツ・アズマプロダクション」で「第一線映画連盟」の俳優陣撮影玉井正夫らを引き連れて勤王』を撮ったその後は、スタッフ・キャスト引き連れて阪東妻三郎プロダクション奈良市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所河合映画社転々とする。1929年昭和4年2月、「古海卓二プロダクション」を設立、『国聖大日蓮』を監督後、5月渡欧帰国後は右太プロへ戻るが、1931年昭和6年)に労働争議起こし解雇される東活映画社に移るが1932年昭和7年)の同社解散で、阪妻プロに戻る。その間1934年に妻の紅沢離婚、さらに極東映画社甲陽映画配給千鳥興業)へ移り園池成男」名で監督をするが、1937年昭和12年)の『ボーイスカウト』を最後に43歳で映画界去った

※この「映画作家時代」の解説は、「古海卓二」の解説の一部です。
「映画作家時代」を含む「古海卓二」の記事については、「古海卓二」の概要を参照ください。

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