明治天皇御製の公開
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明治天皇は歌を詠むのが趣味であったが、当初あまり上手いとはいえず、むしろ皇后の詠歌のほうが優れていた。それが1904年に始まる日露戦争を境に、天皇の詠歌は急速に進歩したといわれる。そしてその頃から天皇の御製が新聞に多く載るようになった。新聞に載る御製は教訓的なものが多かった。 御製を新聞社に漏洩していたのは、御製に点を付けていた御歌所長高崎正風であった。天皇は自分の歌が勝手に公開されることを苦々しく思い、高崎を呼んで軽く咎めた。高崎は「御製を世間に漏らすということは世道人心にために非常によいことと存じまして致したことでございます」と開き直った。世道人心によいという点に関しては、明倫歌集もまた世道人心に有益な和歌を集めたものと考えられていた。かつて徳川斉昭は明倫歌集の自序において、道徳の教えというものは素直に詠んだ歌の中に自然と現われるものだと言っていた。 当時日本に在住していた英国人アーサー・ロイドは明治天皇の御製を見て感激し、それらを選んで英訳して各国の元首に贈呈した。米国大統領セルドア・ルーズベルトは明治天皇の御製を見て、平和を熱望する明治天皇の博愛精神に感激し、日露戦争を調停することを決心したといわれる。かつて徳川斉昭は、明倫歌集の自序において、古の道を歌い選んでいけば、いずれ外国人にも我が国の道を教えることにもなるだろうと期待していた。 日露戦後、明治末期の1910年に元首相大隈重信が刊行した『国民読本』は、明治天皇の御製を編成の根本とし、小学校卒業者を対象に、日本の国体と国民性を明らかにし、また忠君愛国の意義を示して、日本国民の理想を顕明することを企図していた。同書は国民教育の教材として明治天皇の御製を体系的に用いた最初の例であった。同書に掲載された御製もまた高崎正風が漏洩したものであった。天皇は高崎に詰問した。高崎はまたも開き直って「御製のまことに尊くめでたいこと」、「国民をして常に拝誦せしむれば、風俗を正し道徳を進むるに大効あるべきを信じたること」、そして「ただ国家の為に謀りたること」を陳述した。この年、明倫歌集が池辺義象の監修により評釈を加えて振り仮名を付して出版された。学校に遊ぶ児童・少年や青年に向けて、校外の読み物として編纂された。明倫歌集の歌を暗唱できるようになれば、品格を養い行状を善くし嗜好を高める点において一生の利益になると謳われた。 明治天皇は1912年に崩御した。その後、明治天皇の歌集を編纂することになった。当初は宮中の御歌所寄人らが編纂委員となって御製を選考していたが、1917年11月、佐佐木信綱と池辺義象が編纂委員に加わった。2人はそれぞれ明倫歌集の出版で校註や監修を行った人物であった。やがて編纂が終わり、1922年に『明治天皇御集』が公刊された。これを公刊するに至った理由は「実に国民にとりて修養の鑑」であり、「教育上も極めて有益」であるからだとされた。明治天皇御集編纂委員の佐佐木信綱によると、徳川斉昭が明倫歌集を編纂したのも人倫道徳を明らかにして修身の鑑とするためであった。 大正末期の1925年、明倫歌集が新註と作者索引とを付して出版された。徳富蘇峰がこれを紹介した。
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