日田代官時代
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正義が就任した日田代官は、豊後・豊前・筑前・日向にある15万石もの幕府領を支配するとともに、薩摩藩の島津家、熊本藩の細川家、佐賀藩の鍋島家、福岡藩の黒田家など九州の外様大名たちを監視する重要な役職であった。正義は、日田代官の就任にあたっては家族を同行せずに江戸に戻し、単身で日田に向かい、文化14年(1817年)10月25日に日田陣屋に着任した。単身で日田に赴いたのには、嫡男正路が17歳となり、そろそろ正路自身の仕官のことも考えなければならなかった事情もあった。 日田に着任した翌月の11月16日、正義は70歳以上の老人を代官所に集めて敬老会を開くなど、現地の人々の人心掌握に努めた。翌文政元年(1818年)4月には、月隈山の山道を改修した際に、山際に十余の岩穴が出てきて、そこから白骨が見つかったため、それらの白骨を集めて山麓に改装し、帰安碑を建てて弔うなどもした。この帰安碑の碑文は、豊後の三賢の一人として数えられる咸宜園を創立した広瀬淡窓によって書かれている。淡窓は、この翌年の9月に正義の用人格の筆頭である宇都宮正蔵に次ぐ用人格の正義の家臣となっている。さらに文政3年(1820年)には、日田陣屋に一角に災害時などに備えて米を供給するための備蓄米の蔵として、2間半の5間という陰徳倉を建てた。この2年後の文政5年(1822年)2月の隈町の大火の際には、この蔵米を被災者に配って災害支援に役立ち、この陰徳倉は正義の善政のひとつに数えられている。この蔵米は、貧困救済の事業にも役立てられた。 広瀬淡窓が正義の家臣となった年の文政2年(1819年)5月、筑後川河口の有明海の漁業権を巡って、柳川藩・佐賀藩・久留米藩による三つ巴の争いが発生し、幕府が仲裁に入るという事件があった。この裁きは、正義が着任した日田陣屋で行われることとなり、御用役所が設置され、吟味役となる幕府の巡見使と三藩の送り役人を含めて500人にも達するという大がかりなものとなり、場合によっては幕府による厳しい裁定も下される事態となったが、この際に正義は、精力的に柳川藩を説得して内済扱いにすることに成功したため、最終的には幕府による吟味や裁きは行われず、この騒動に伴う罪人を各藩で内々に処分することで、事を大きくせずに決着させた。これにより、正義の日田代官としての外交的手腕も証明され、代官としての評価を高めていった。 この筑後川河口の入合漁場紛争を解決した年の9月4日、正義は代参者を立てて、塩谷家の先祖の支配地であった下野国塩谷郡にある塩谷家の菩提寺・長興寺に紗綾(さや)を2巻、御菓子1箱を寄進し、先祖供養にも努めた。 文政3年(1820年)12月11日、正義は西国郡代昇進の内示を受けて、いったん日田の地を離れ、翌文政4年(1821年)1月29日に江戸に到着、5月22日に江戸城にて正式に西国郡代に任命された。
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