日田代官時代とは? わかりやすく解説

日田代官時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:13 UTC 版)

塩谷正義 (代官)」の記事における「日田代官時代」の解説

正義就任した日田代官は、豊後豊前筑前日向にある15万石もの幕府領支配するとともに薩摩藩島津家熊本藩細川家佐賀藩鍋島家福岡藩黒田家など九州外様大名たちを監視する重要な役職であった正義は、日田代官就任にあたって家族同行せずに江戸戻し単身日田向かい文化14年1817年10月25日日田陣屋着任した単身日田赴いたのには、嫡男正路17歳となり、そろそろ正路自身仕官のことも考えなければならなかった事情もあった。 日田着任した翌月11月16日正義70歳以上老人代官所集めて敬老会を開くなど、現地人々人心掌握努めた。翌文政元年1818年4月には、月隈山山道改修した際に、山際に十余の岩穴出てきて、そこから白骨見つかったため、それらの白骨集めて山麓改装し、帰安碑を建てて弔うなどもした。この帰安碑の碑文は、豊後三賢一人として数えられる咸宜園創立した広瀬淡窓によって書かれている淡窓は、この翌年9月正義用人格の筆頭である宇都宮正に次ぐ用人格の正義家臣となっている。さらに文政3年1820年)には、日田陣屋一角災害時などに備えて米を供給するための備蓄米として、2間半の5間という陰徳倉を建てた。この2年後文政5年1822年2月隈町大火の際には、この蔵米被災者配って災害支援役立ち、この陰徳倉は正義善政のひとつに数えられている。この蔵米は、貧困救済事業にも役立てられた。 広瀬淡窓正義家臣となった年の文政2年1819年5月筑後川河口有明海漁業権巡って柳川藩佐賀藩久留米藩による三つ巴争い発生し幕府仲裁に入るという事件があった。この裁きは、正義着任した日田陣屋行われることとなり、御用役所が設置され吟味役となる幕府巡見使三藩送り役人含めて500人にも達するという大がかりなものとなり、場合によっては幕府による厳し裁定下される事態となったが、この際正義は、精力的に柳川藩説得して内済扱いにすることに成功したため、最終的に幕府による吟味裁き行われず、この騒動に伴う罪人各藩内々処分することで、事を大きくせずに決着させた。これにより、正義日田代官としての外交的手腕証明され代官としての評価高めていった。 この筑後川河口入合漁場紛争解決した年の9月4日正義代参者を立てて塩谷家の先祖支配であった下野国塩谷郡にある塩谷家の菩提寺長興寺紗綾(さや)を2巻御菓子1箱を寄進し、先祖供養にも努めた文政3年1820年12月11日正義西国郡代昇進内示受けて、いったん日田の地を離れ、翌文政4年1821年1月29日江戸到着5月22日江戸城にて正式に西国郡代任命された。

※この「日田代官時代」の解説は、「塩谷正義 (代官)」の解説の一部です。
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