日本美術院時代と洋行とは? わかりやすく解説

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日本美術院時代と洋行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:34 UTC 版)

近藤浩一路」の記事における「日本美術院時代と洋行」の解説

大正前期美術界では珊瑚会を中心に新南画流行していたが、近藤1919年大正8年)に日本美術院第6回展で初入選を果たし翌年第七以降でも入選し本格的に日本画転向する近藤画風第六入選作では浦上玉堂川端龍子色彩表現群青派などの影響受けており、同時代流行していた写実主義手法光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。1921年大正10年)には日本美術院院展)に入会し横山大観らに評価される1922年大正11年)には岡本小寺健吉鈴木良治らの画家友人ヨーロッパ各国旅行する。この旅ではフランス拠点スペインイタリアへ足を伸ばし和田藤田らを訪ね各国名所美術サロン美術館訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤエル・グレコ作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術絶賛する一方で同時代前衛美術に対して批判的見解示しており、日本画壇が同時代西洋美術に強い影響を受ける中で、自身日本人意識強めるものであった記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行作品反映されていなのに対し中国旅行では帰国後に中国風景描いており、近藤がこの時期日本人東洋人としての意識強めていたと指摘されている。 1923年大正12年)の第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤代表作評されている。同年には関東大震災自宅失い一時静岡滞在したのちに妻の故郷であった京都市移住する京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風門弟たちの育成にも務め山本有三吉川英治芥川龍之介らの文人俳人らとも交遊している。画風大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。 1931年昭和6年)には個展開催のため、茨木杉風とともにフランスパリへ渡る。パリでは小松清助力得て個展開催し小松通じて美術批評家であるアンドレ・マルロー親交を結ぶ。アンドレ・マルロー『人間の条件』登場する画伯は、浩一路がモデルである。

※この「日本美術院時代と洋行」の解説は、「近藤浩一路」の解説の一部です。
「日本美術院時代と洋行」を含む「近藤浩一路」の記事については、「近藤浩一路」の概要を参照ください。

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