日本美術院同人から初個展開催まで
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1924年、日本芸術院同人に推挙される。1926年には東京府美術院評議員に任命された。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した。 1927年頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した。1928年には兄の借金返済のため郷里熊本にて画会を行うなどしている。 1929年9月、新築された日光東照宮朝陽閣の障壁画を揮毫するため、横山大観の推薦により中村岳陵、荒井寛方らと共に同年12月30日まで現地滞在し制作に携わった。 1930年4月にはイタリアのローマで開催された日本美術展覧会(ローマ展またはローマ日本美術展)に南風作「水温」「朝顔」「巣籠」が選ばれ出品された。 1931年には「美術新論」10月号に「苦難時代を語る」と題して寄稿している。また1936年頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社している。 1938年3月、東京と京都の画家広島晃甫、奥村土牛、小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加、第1回展に出品した。同年9月より第2回文展に審査員として参加している。また1940年4月には自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した。
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