日本刀の文化・宗教的側面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)
室町時代から武士階級以外の幅広い階層の人々に打刀と脇差を同時に携帯する大小二本差しが流行しており、戦国時代の村落においては成人と認められた男児に脇差の携帯を許す「刀差祝」の儀式を行うまでになった。 安土桃山時代には有力な武将達は贈答品として名刀を利用していた。 江戸初期以前における社会では激高しやすい者が多く警察機構も未発達であったことから、些細なトラブルから組織同士の抗争まで自力救済による解決が求められ、身分にかかわらず刃傷沙汰に及ぶことは珍しことではなかった。人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況は戦時か平時かに問わず、常に発生する可能性が極めて高かった。日本刀は鞘に収めれば手を使わずに常時携帯でき、咄嗟に使いやすく護身具として最適であった。一方で武士達は、戦場において最後の拠り所となるに刀に神器としての精神的要素、宗教的価値も見いだしていたと考えられており、戦乱の時代には所有者が信じる神仏の名や真言を刀に彫り付けることも流行した。 苗字帯刀が許されることは名誉なことであることとされた。 明治2年(1869年)3月、廃刀令に先立ち、森有礼は「早く蛮風を除くべし」として佩刀禁止を公議所で提議したが、王政復古から間もない頃であったため反対意見が多く、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられている。 工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどの情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知識を実現しているためと思われる。
※この「日本刀の文化・宗教的側面」の解説は、「日本刀」の解説の一部です。
「日本刀の文化・宗教的側面」を含む「日本刀」の記事については、「日本刀」の概要を参照ください。
- 日本刀の文化宗教的側面のページへのリンク