日本へ渡り、ドンクに勤務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/29 07:56 UTC 版)
「フィリップ・ビゴ」の記事における「日本へ渡り、ドンクに勤務」の解説
1965年4月、ビゴは日本の東京で開かれる見本市でパンを焼く職人の募集に応じ、日本へ渡った。派遣を決めたのは、ビゴが国立製粉学校で師事し、卒業後も交流のあったレイモン・カルヴェルであった。ビゴが若いことを懸念する声に対しカルヴェルは、「誰も指導者に生まれる者はいない、指導者になるのだ。少々時間がかかったとしても、ビゴはそうなっていける器ではないだろうか」と庇ったという。当時ビゴは母親を亡くしたばかりで、「他の誰にも埋めようのない虚ろな思い」を抱えながら毎日を送っていた。ビゴは当時のことを「母なら日本行きに反対したでしょう」「もし母が生きていたら、来なかったでしょう」と振り返っている。 見本市終了後、フランスパンの製造に携わった兵庫県神戸市のパン屋ドンクの三宮店に技術指導員として勤務することになった。1966年8月にドンクが東京の北青山に店舗(青山店)を開くと同店へ移った。オーブンを客から見える場所に置きフランス人の職人がパンを焼くスタイルが人気を博し、出店後まもなくフランスパンブームが起こった。それまで日本人にとってフランスパンとは「塩味が強く、固いコッペパン」を意味する言葉であった。しかしビゴが焼くフランスパンは「皮は薄くぱりっとしていて香ばしい」、「薄いクリーム色の中身はしっとりやわらかい」という、従来とは大きく異なるものであった。塚本有紀は、このようなタイプのフランスパンはレイモン・カルヴェルによって日本にもたらされ、ビゴによって広められたと評している。全日本洋菓子工業会元理事長の細内進は、「日本にこんなにフランスパンが普及したのは、ビゴがよい仕事をしたおかげですよ。いくらめずらしくっても、ビゴの技術がどうしようもなかったら日本人は飛びつかなかったはずです」と評価している。 1966年秋頃から1967年にかけてフランスパンブームが起こり、ファッションの一部とされるようになった。それまで主流を占めていたロールパンとの間で起こったシェア争いは「青山ベーカリー戦争」と呼ばれる。この時期にドンク青山店は1日に2トンの小麦粉を消費し、ビゴが1人で小麦粉900kg分のパンを焼いたこともあったという。ドンクは1968年にフランチャイズ方式による店舗の全国展開(ドンク・フランスパン・チェーン)を開始。ビゴは札幌、神戸、京都と赴任先を変えながら全国の店舗を指導して回った。なお、この時期にビゴは日本人の女性と結婚している。
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