日常的な言い回しでの用例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:05 UTC 版)
日常会話の中では、友情的な関係はその絆の強さによって、微妙に区別されたさまざまな表現がなされている。最も繋がりの弱いものとしては「知り合い」、最も繋がりの強いものとしては「生涯の親友」がある。後者は、長期間離れ離れになることがあろうとも繋がりが切れず、双方が無条件で信頼し合うような関係についてを指す。友情の絆の強さは、相手のための自己犠牲という形で現れることも少なくない。 友情は、愛情とはいささか異なったものである。さらに友情は、原則的には、兵士、消防士、ボーイスカウト、あるいは山登りでのパーティー、スポーツ選手、チームやグループでの活動仲間、労働組合の仲間といったよう場合に見られる連帯意識とは区別して考えられるべきものである。これらの場合、人は互いに連帯し、同じようなものの考え方で信頼し合って行動することが求められ、自発的な友情とは由来が異なるからである。 もちろん、友情は仲間意識と多くの共通点を持っているのも確かである。心理学者のヘルプ・ゴールトバーグ (Herb Goldberg) は、友情は3つの段階を経過するという。ゴールトバーグ曰く、「仲間意識」のひとつ前の段階が「友情」だとのこと。 ゴールドバーグはまた第一の段階を、「役に立つ友情」と呼んでいる。どんな理由にせよ、双方に有利なことや有益なことをもたらしてくれる限り、繋がっていく友情である。 第二のものは、「目的志向の友情」と言われる。何か特定の目的の下、たとえば余暇に一緒に草野球、釣り、ゴルフなどを楽しむための連れとである。 第三の段階は、文字通り「友情」である。特定の目標、目的、利用を追い求めることなく、ただ何かの機会に知り合って、互いによく熟知し合ったという友人。この関係の中での利害は伴わず、ただ友情それ自体が目的になっている。 「友情」という言葉は、別の関係に色を添えるためにしばしば拡大解釈されて使われている。例を挙げるなら、だれかを仕事の上での友人という場合、仕事でいい関係を持ち、単なる同僚という以上の存在、具体的に言えば共感を持っているとか、しばしば気持ちのいい付き合い方をしてきたとか、そういったニュアンスを込めたいためにこういう言い方をする。同様のケースについては、メル友(電子メールにおいての友)を参考にされたい。 似た例として日本の公教育においては古くからクラス、学年、学校など、一定のコミュニティを構成する園児、児童、生徒は相互に友情を持つべきものとして、子供に対するそれらの総称に「友達」が使われてきた(例として『同じクラスのお友達』等)。この傾向は保育園や幼稚園などの幼児教育、あるいは小学校低学年において特に顕著であり、前述のような総称としての使用のみならず、「同じクラスのお友達でしょう?」と生徒指導において関係の改善や協力を促す際に使用されることも珍しくない。また、初任者研修などで先輩の教員からこのように表現することを指導される例も多い。幼児期においては仲間意識を構成するにあたり「友達」という言葉はわかりやすく耳障りもよいが、学年が上がるにつれて別に仲が良くない相手もすべてひっくるめて友達とされることに違和感を覚える児童生徒も増えてくる上、むしろ険悪な関係にある相手であるにもかかわらず「友達」として関係改善や協力を促すことによりかえって関係が悪化したり、担任に対し不信感を持つ例もあるため、現在では友情を媒介としないが同じ共同体を構成する関係として「仲間」に置き換える例も多くなっている。 同性愛についても、人はよく友情と関係させて語るし、異性との間の強い友情ということも語る。男性同性愛者と女性の間のこうした関係は、よく目にされる。大抵の場合、そうした友情は、女性と男性の間で「ご婦人方の会話」を営んだり、自分の配偶者以外の男性とよりよく理解し合えるというのも、ありえないことではない。また、そういう同性愛の男性からは性的な誘惑を受けないということも、相対的に友情の根拠として挙げられ、このような男性が「一番の女友達」と同列に並べられる所以かもしれない。
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