旗艦の特性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 06:03 UTC 版)
黎明期の水雷艇や駆逐艦は居住性や航続力に限界があり、貨客船を改造した水雷母艦が駆逐隊や水雷艇隊の旗艦を兼ねていた。第一次世界大戦当時、イギリス海軍は水雷戦隊旗艦として大型駆逐艦(嚮導駆逐艦)を開発した。日本海軍は巡洋艦を旗艦とする方針を当初より採り、新編時は防護巡洋艦利根を旗艦に当てた。とはいうものの、巡洋艦には最前線の洋上単独偵察という本来の任務があるため、最新鋭の巡洋艦を水雷戦隊旗艦の任務に充てるわけにはいかなかった。翌年12月に利根は第六戦隊へ転出し、第二水雷戦隊旗艦は装甲巡洋艦出雲となった。その後も装甲巡洋艦吾妻、日進、浅間など、日露戦争時代の装甲巡洋艦で乗り切っている。 このような流れの中で、日露戦争以降の日本海軍はアメリカ海軍を仮想敵とし、太平洋上における艦隊決戦の構想を固める。また大正元年度大演習では、日中に水雷戦隊を運用する可能性が認識された。そこで、英海軍のスカウト(偵察艦)の流れをくむ一連の二等巡洋艦(軽巡洋艦)を水雷戦隊の旗艦とし、駆逐隊を指揮させることになった。この構想下における水雷戦隊の旗艦には「水雷戦隊を率いるための速力と通信能力」「艦隊に随伴するための航続力」「敵艦隊に肉薄するための砲撃力と雷撃能力」が求められ、従来の貨客船改造型母艦では到底勤まらなくなっていた。まず1918年(大正7年)1月下旬に筑摩型防護巡洋艦の平戸が二水戦に編入された。駆逐艦の性能向上にともない筑摩型の能力不足が目立つようになり、天龍型軽巡洋艦が建造された。つづいてアメリカ海軍のオマハ級軽巡洋艦を意識して、天龍型の拡大型である5,500トン型軽巡洋艦(球磨型、長良型、川内型)が竣工し、順次第二水雷戦隊に編入されていった。5,500t型軽巡からは、艦載機による索敵も可能となった。また昭和2年度の第二水雷戦隊は軽巡洋艦夕張および神風型駆逐艦と睦月型駆逐艦で統一され、最新・最精鋭の水雷戦隊となった。なお、遭遇戦では巡洋艦の強力な武装による敵水雷戦隊の制圧、逆に頑強な防御力を頼みにした囮役が期待された。現に、太平洋戦争時には、神通・川内らが敵軍の集中攻撃を受けているうちに、味方水雷戦隊の雷撃が成功している例がある。ただし日米艦隊決戦下における水雷戦隊は重巡洋艦部隊と共に四個夜戦隊で二個夜戦群を編成し、重巡洋艦戦隊もしくは金剛型戦艦が敵警戒部隊を排除したあと水雷戦隊が突撃する想定であった。第二水雷戦隊(軽巡1、駆逐艦16)と共に第1夜戦隊を編成する戦隊は、妙高型重巡洋艦3隻(妙高、那智、羽黒)で編制された第五戦隊である。 こうして世界有数の軽巡洋艦戦力を擁するようになった日本海軍だが、日本の国力では後継艦の建造が思うに任せなかった。太平洋戦争時の5,500t型軽巡はすでに旧式化していたが、阿賀野型の就役までは第一線に立たざるを得なかった。また、本来の旗艦が損傷や修理で二水戦本隊と別行動になった場合、重巡洋艦衣笠(第二次ソロモン海戦で神通損傷時)、重巡洋艦高雄(二水戦司令部の横須賀~パラオ回航時)と鳥海(能代横須賀修理時、2月中旬~4月上旬)が二水戦旗艦となった。 平時においても、駆逐艦を臨時の水雷戦隊旗艦とすることがあった。太平洋戦争に突入すると、米軍の制空権下で対空火器の貧弱な5,500t型(二水戦においては神通、五十鈴、長良)を運用するのは困難だったため、戦場に突入する場合は朝潮型駆逐艦(霞〈礼号作戦、北号作戦〉)、陽炎型(早潮〈第三次ソロモン海戦〉、黒潮〈鼠輸送時〉)、夕雲型(長波〈ルンガ沖夜戦〉、浜波〈能代沈没後〉)、島風型(島風〈多号作戦〉)、秋月型(照月〈鼠輸送時〉)などの駆逐艦が第二水雷戦隊旗艦を務めることも多かった。なお第二水雷戦隊解隊式は初春型駆逐艦初霜艦上でおこなわれた。
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