新興俳句における無季
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上記のように俳壇の主流を占めていた「ホトトギス」の伝統俳句に対し、1931年の水原秋桜子の「ホトトギス」離反を始点として、反伝統・反「ホトトギス」を旗印とした新興俳句運動が起こる。当時の青年層を中心とした新興俳人たちは「ホトトギス」にはない近代的な叙情の表現や社会性の表現を目指し、一句では表現できない主題を連作俳句によって表現しようとしたが、このような連作において同一季語の重複を避ける意識から無季俳句が現われはじめた。こうした動きの中、「天の川」主宰の吉岡禅寺洞は1934年にいち早く無季俳句の容認を宣言し、以後無季俳句は新興俳句の主要な特色のひとつとなっていった。 新興俳人たちの中でも無季に対する立場はさまざまであり、例えば連作を積極的につくり無季俳句が注目されるきっかけをつくった秋桜子や山口誓子たちは無季俳句を認めない立場をとっている。一方無季俳句を作った新興俳人たち(「無季派」と呼ばれた)も、その立場は一様ではなかったが、季語があってもなくてもよく、題材の季感の有無に応じて有季と無季を使い分ける「無季容認派」、季語や季感の有無を問わず句の詩感を第一とする「超季派」に大きく分かれる。前者は日野草城や吉岡禅寺洞、後者は富澤赤黄男や篠原鳳作が代表的な俳人である。(※以下、例句は戦後の作を含む) 一握の砂を滄海にはなむけす 吉岡禅寺洞見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 日野草城しんしんと肺碧きまで海の旅 篠原鳳作草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男 また篠原鳳作や渡辺白泉、西東三鬼らは、伝統的な季語に対して「ラグビー」「タイピスト」などの都会的で社会性の強い言葉、「母」「愛」「死」などの詩的なインパクトの強い言葉(詩語)を用いて句作を試みた。1937年に日中戦争が起こると、「無季俳句本来の面目を耀かせる絶好の機会」(三鬼)とされ、季語に対して「戦争」をキーワードとする戦争俳句が新興俳人たちによって積極的に作られた。特に三鬼は内地にいながら戦地の光景を想像して詠む戦火想望俳句を推進し、草城や東京三(秋元不死男)らもこれをつくったが、従軍した俳人による前線俳句(富澤赤黄男、片山桃史)、銃後の生活を題材にした銃後俳句(渡辺白泉、井上白文地)なども多数作られている。 これらの新興俳句運動は1940年、政府からの言論弾圧を受けて終焉に追い込まれるが(新興俳句弾圧事件)、個々の新興俳人の活動は戦後に復活してその流れが受け継がれ、従軍した鈴木六林男、戦火想望俳句を作った三橋敏雄などは戦後も続けて無季による戦争俳句を作り続けた。 兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り 西東三鬼千人針はづして母よ湯が熱き 片山桃史銃後といふ不思議な街を丘で見た 渡辺白泉遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男いつせいに柱の燃ゆる都かな 三橋敏雄
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