しんしんと肺碧きまで海の旅
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評 言 |
小学四年だったと思うが(昭和二四、五年頃)、担任の先生が、黒板にこの句を書かれたその時、どんな話をされたかは記憶にない。 敗戦後も疎開先の農村で生活した。鹿児島市内の自宅から子どもの足でも十分もあるけば白砂青松の海岸に出られたが、当時は海には程遠い山村暮らしで、海を懐かしく思っていたのだろう。妙に心の中に残った。昭和二十六年に鹿児島市内の中学校に転校した。その時、友達の父上が、長崎鼻に鳳作句碑建設で尽力されたことを知り、ほうと思った程度で、俳句に関わることなど夢にも思わなかった。大学でも、目の前に福永耕二君が、既に俳人として名を知られていたが、関心は無く、単に同学の仲間として接していた。 昭和三十五年、大学卒業と同時に、奄美大島の高校に赴任の途中、朝明けの船上で冒頭の句が突然思い出され、この句の魅力が、当時はまだ雲彦と号していた鳳作の心情をも身を以て体感した。職場の先輩教師たちに俳句会に無理やり入れられて以来、半世紀を超えるつきあいになっている。 藤後左右・前原東作・岩尾美義・国武十六夜等という先達の薫陶を受けた割には、この道の遥けさには内心忸怩たるものがある。 鹿児島県現代俳句協会では、毎年、九月に鳳作忌俳句大会を実施している。第一回大会には、鳳作夫人と令息も来賓として参加された。爾来、順調に会を重ねているが、顔ぶれも大分変ってゆくのは、時の流れとして仕方のないことではあるが、傘寿近い歳になると妙に、先輩たちのことが懐かしく思われる。 碧い肺の人に触れあう九月かな けん 写真提供:「ゆんフリー写真素材集」Photo by (c)Tomo.Yun |
評 者 |
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備 考 |
しんしんと肺碧きまで海の旅
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前 書 |
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評 言 |
「現代俳句・第三巻」(河出書房、昭15)「無季」 あれは、そう、北は北海道を始め、関東、関西、九州からの遠来組を加えて、陸蟹(おかがに)の産卵を見る吟行の旅であった。行き先は宮古島。鳳作の詠んだ島である。那覇から空路40~50分。乗ったかと思ったらあっと言う間に到着、機上から見た海の色が、宮古島へ近づくにつれ那覇の海とは全く異なる青から蒼へのバリエーションの多彩さに歓声があがった。 篠原鳳作、明治39年1月7日~昭和11年9月17日。鹿児島県生まれ、本名国堅。東大法学部卒、昭和6年沖縄県立宮古中学へ赴任、昭和9年鹿児島第二中学へ転勤するまでの約三年宮古島に滞在。昭和11年9月病死。享年30歳。夭折ともいえるような短い生涯であった。 昭和初期の頃の鹿児島沖縄間、更に乗り換えて宮古島までの大海原を行く船旅はおそらく一週間近くを要したのではあるまいか、そこでは船のエンジン音以外何も聞こえぬしんしんとした静寂さ、深深と吸いこまれそうな深い海の底、あたかもその蒼さには己の肺腑まで染まりそう、こうして、若き日の鳳作の姿が見えてくる。勿論無季である。辺境に住む者にとって、いわゆる、「季節にかかわる語の集成」である歳時記に掲載された季語との相違・葛藤は今日もめんめんと続いていて、まことに悩ましい。宮古島市のカママ嶺公園に建つ鳳作の句碑、鳳作はこれからも「無季」の旗手を続けるであろう。 けれども残念ながら、無季第一の作家と認めた水原秋桜子の同じく秋桜子編「現代俳句鑑賞辞典」には鳳作の名が無く、無論一句も掲載されていない。 |
評 者 |
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