藤後左右
藤後左右
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藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人、医師(医学博士)。本名惣兵衛。
生涯
東志布志村(現志布志町)生。志布志尋常高等小学校尋常科、旧制鹿児島県立志布志中学校(現鹿児島県立志布志高等学校)、旧制第七高等学校造士館理科を経て、1928年京都帝国大学医学部に入学し、京大三高俳句会に入会[1]。『ホトトギス』に投句を始め、高浜虚子に師事[1]。在学中の1930年に『ホトトギス』巻頭[1]。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1932年京大医学部卒業[1]。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊[1]。
大学卒業後は松尾内科を経て京都市立病院に勤務[1]。「急性熱性病ノ蛋白代謝ニ関スル研究」で1941年医学博士[1]。1943年応召、1946年末吉町に復員[1]。1947年、末吉町藤後内科医院開業。1948年、志布志町下町に藤後内科病院設立。
1951年には第一次「天街」を、1958年には第二次「天街」を創刊し、代表同人を務めた[1]。「天街」には中尾良也、国武十六夜、岩尾美義、野間口千佳らが集い、流派を問わない文学としての俳句に注力した。1971年には志布志湾公害を防ぐ会会長となる[1]。1973年、南日本文化賞受賞[1]。
当初は印象鮮明な写生句を作ったが、戦後は口語調に転じ、また連作を多く作った。
句集に『熊襲ソング』『藤後左右句集』『ナミノコ貝』『新樹ならびなさい』『藤後左右全句集』。
脚注
参考文献
- 『現代俳句大事典』 三省堂、2005年
- 関悦史 「藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた」 2012年8月5日
外部リンク
- 現代俳句データベース 藤後左右の俳句
- 増殖する俳句歳時記 藤後左右の句 - ウェイバックマシン(2015年4月2日アーカイブ分)
固有名詞の分類
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