藤後左右とは? わかりやすく解説

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藤後左右

藤後左右の俳句

たかうなに幾千の竹生ひ立てる
まつさおな雨が降るなり雨安居
チキンライスと滝の睡眠不足な味
三月集会抜けて熔岩たちに会いに来た
何か言って滝を蹴ってるお嬢さん
兵隊の誰もが持つ遥かなるまなざし
口々に都をどりはヨーイヤサー
噴火口近くて霧が霧雨が
夏山と溶岩の色とはわかれけり
大文字の大はすこしくうは向きに
山羊が来て苦労をともにすると云う
志布志の家百舌と女が走っていた
恋煩いだろうか血を吐き胸が痛む
敬礼の上手と下手は生れつきだ
新樹並びなさい写真撮りますよ
曼珠沙華どこそこに咲き畦に咲き
横町をふさいで来るよ外套着て
炎天や行くもかへるも溶岩のみち
舞いたい鶴舞いたくない鶴一緒に舞う
軍曹に指揮は頼んであったんだ
軍艦は沈むが島は沈まぬぞ
 

藤後左右

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/14 23:55 UTC 版)

藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人医師医学博士)。本名惣兵衛。

生涯

東志布志村(現志布志町)生。1932年、京都大学医学部卒。松尾内科を経て京都市立病院に勤務。1941年医学博士。1943年応召。復員後、末吉町に藤後内科医院開業。翌1946年、志布志町に藤後内科病院設立[1]

大学入学の1928年より高浜虚子に師事。1930年「ホトトギス」巻頭。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊。

1951年には第一次「天街」を、1958年には第二次「天街」を創刊し、代表同人を務めた。「天街」には中尾良也、国武十六夜、岩尾美義、野間口千佳らが集い、流派を問わない文学としての俳句に注力した。

当初は印象鮮明な写生句を作ったが、戦後は口語調に転じ、また連作を多く作った。1978年には志布志湾公害を防ぐ会会長となり、公害の実態と裁判の経過を作品化している。

句集に『熊襲ソング』『藤後左右句集』『ナミノコ貝』『新樹ならびなさい』『藤後左右全句集』。

脚注

  1. ^ [1]

参考文献

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