恋煩いだろうか血を吐き胸が痛む
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1991年(平成3)6月11日に亡くなった藤後左右。最晩年の作である掲句は左右俳句の理念を象徴する辞世の句としても感取されている。肺癌を患い、死を目前にした83歳の作者がその症状を「恋煩いだろうか」と打ち明ける。医師でもあった左右は「患い」を「恋煩い」という詩語に転換せしめた。血の色は恋慕の情炎を彷彿とさせ、胸の痛みは止むことのない搏動さえ感じさせる。これは生への、そして俳句へのかぎりない思慕であり、さらには森羅万象への畏敬の念へと通底する胸懐である。 言語界においてこそ初めて人間は真に自分自身からも解き放たれる。そのことを感得していた俳人であったればこそ、左右は自他の別なく人として在るがゆえの煩悩を是認できたのであろう。ゆえにあるがままの心情を諾いつつ、それを詩的昇華へと導くこともできたのではないだろうか。この心境は作者の来歴からも感知できる。 1928年、京大三高俳句会に入会した作者は1930年には「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を飾る。新興俳句運動隆盛の頃、京大俳句事件が起こるのだが、奇しくも医学の道に専心していた左右は弾圧を免れた。当時の左右は肉体という分野から生命の起源を追究していたといえる。また、言語本来の自由な表現への希求から時代の趨勢というものに対して無意識のうちに違和を覚えていたとも考えられる。 その後、軍医として戦争を体験し帰還した左右はやがて志布志湾公害を防ぐ会の初代会長に推される。志布志湾公害反対連絡協議会会長としてその活動に邁進したことも、生命の根源に立脚した医師として、また俳人としての自然な発露であったと確信している。 左右は句作のうえでは五七五定型を解きほぐし、口語六八六型を提唱するに至るが、掲句の「血を吐き」という言葉は初学時の「ホトトギス」を想起させ、結核を患った正岡子規へと溯り行く。かつて現代俳句協会名誉会長の金子兜太氏は「高浜虚子は藤後左右のことを永く心に留めていた」と講演で語られた。その言葉を重ねると、死を以て俳句の原点へと立ち返った左右の姿がより鮮やかに映る。 |
評 者 |
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備 考 |
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