新興力士団と革新力士団
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協会は無期限延期としていた1月場所を「2月場所」として行ったが、幕内力士の大半が抜けた状態と、世間の脱退力士への同情と目新しさもあって國技館内は閑古鳥が鳴き、予定していた8日間の興行でようやく従来の1日分の収入を得る状態だった。力士数が不足していたこともあって、取組は従来行われてきた東西対抗戦を取り止め、一門別の総当たり戦で行われた。一方、協会を脱退した新興力士団は、警視庁からの興行許可を得た後に宣伝用の飛行機を2機借用し、天竜が自ら乗り込んで宣伝用のビラを数万枚に渡って撒くという大胆かつ派手な宣伝を行った。このうち1機が上野公園に不時着するおまけまで付き、旗上げ興行は2月4日から晴天6日間のみ開催、5000名収容のテント張りの相撲場だったが、 入場料は90銭均一 A・B・Cの三級に分けた総当たり勝ち抜き戦を行い、A級が選士権を争う 音楽隊が奏でる行進曲によってガウンを着た全力士が入場式を行う 休憩時間に流行歌手のレコードを流す 大関・関脇といった地位名称や呼出を廃止(場内放送が両力士を告げる) などの創意工夫を凝らし、多くの観衆が集まるなどの大盛況となった。その後、新興力士団と革新力士団は同年3月に合併して「大日本相撲連盟」を結成し、同年5月3日に靖国神社相撲場で晴天10日間の興行を行った。この時の新興力士団は白と赤の線が入ったガウン、革新力士団が水色のガウンをそれぞれ着用して入場し、締め込みの代わりに猿股を用いた。 ここまでは順調に興行を行ってきた大日本相撲連盟だったが、唯一髷を切らなかった出羽ヶ嶽文治郎が同年5月の皇軍慰問大相撲において脱走したことで、高知での巡業では不平不満が続出した。これにより新興・革新問わず協会へ復帰する者と、この後に新設する「大日本関西角力協会」へ残る者に分かれた。大日本関西角力協会は1933年1月に設立され、同年2月11日に大阪で晴天7日間の興行を実施した。 その後、国内での興行が頭打ちになったため、「満州・朝鮮慰問巡業」に出た。
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