新武徳会柔道試合審判規定
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嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和17年(1942年)に従来の大日本武徳会は改組が行われ、内閣総理大臣の東条英機を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。 昭和18年(1943年)、新武徳会において「実戦的修練を目標とし、白兵戦闘に実効を挙げ得る短時日の修練」を旨とした「柔道の決戦態勢とも言ふべき」内容の新武徳会における柔道の指導方針が発表される。柔道の実戦性についての再検討は嘉納治五郎存命中の頃より始まっており、嘉納の述べる「当て身」や「形」を怠ることのない「真剣勝負」の重要性の主張と矛盾するものではなかった。 新武徳会は柔道範士、栗原民雄(後の講道館十段)を中心とし、柔道の戦技化を推奨していく。栗原は柔道を相手と「離れた場合」・「組んだ場合」の二つに分け、離れた場合「極の形に躱攻動作を応用し、起こり得べき種々の場合を想定し、その組み手を多くして之れを練習し、相当習熟した場合は防具を使用して乱取り程度まで修練すればよかろう(中略)相手を単に一人と想定せず、常に数人と仮想して研究することも怠ってはならない」と述べた。次に組んだ場合には「指関節や腕関節を取ること」の復活研究を説き、また「古流」の研究と応用に留意すること、温故知新の必要性も説いた。 新武徳会に先立ち講道館においては、昭和16年(1941年)「立ちたるまま絞技、関節技を掛け、技が相当の効果を収めた場合に限り寝技に移れる旨改正され」立った状態からの固め技を認めるようになっていた。 新武徳会で新たに作成された柔道審判規定では「第二条 試合は当身技、投げ技、固め技を以て決せしむ、但し普通の試合に於いては当て身技は用ひしめざるものとす」と条件付きであるが、当て身技の使用を認める条項が追加される。防具着用によって当て身技のある試合の安全性に配慮しながらも、特殊なケースとして防具を使用しない試合の実施も示唆されていた。 また関節技も緩和されることになる。 第十一条 関節技は次の基準により之を行わしむ (一)等外者は肘関節 (二)有等者は肘関節、手首関節、足首関節 (三)称号受有者は脊柱関節を除く全関節 として等級称号によって制限はあるが、脊柱以外の全ての関節への攻撃が許されている。 また技術以外の面でも柔道試合の戦技化は図られた。 稽古場、服装として「柔道は戸外に於いても如何なる服装にても実施し得るやう工夫し砂場芝生等を道場として活用せしむこと」とされた。稽古においては「特に青少年に重点を置き野外戦技を弊習せしむこと」とされた。稽古の形態は「従来個人的修練のみに傾き易きに鑑み特に団体的訓練を教習せしむこと」とされ複数人で自由に攻防をする自由掛けなどが行われた。さらに「錬士以上の者にありては当て身技を併用し試合せしめ」ることとし、乱取りが課せられた。しかし乱取りばかり行うことは戒められ、「修練は短時日に於いて白兵戦闘に実効を挙げ得るよう基本動作及び技術(形を含む)を修得せしむこと」となり、「基本動作」「形」といった稽古法の価値が戦闘訓練の文脈で再評価された。また柔道指導者に対しては「己が任務の遂行を期すると共に剣道銃剣道を始め武道各般ににつき努めて研修すべきこと」と、あらゆる武道を総合的に稽古することが求められた。
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