新歴史学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 21:32 UTC 版)
ビスマルクを事実上の指導者としてドイツの国内統一とドイツ帝国の発足がなされ、歴史学派の一応の目標が達成されると、旧歴史学派の次世代であるG・シュモラー、A・ヴァーグナー、L・ブレンターノ、G・F・クナップ、K・ビュヒャーらは、先行世代が歴史研究を通じて拙速に経済の一般法則を導こうとしたことを反省し、演繹的方法で一般法則を定立するには歴史的データの蒐集が不充分であると考えた。「新歴史学派」(Jüngere Historische Schule)と称されるようになった彼らは、旧歴史学派の「実在としての有機体的観念」を斥け文献・統計資料を駆使した詳細かつ実証的な歴史研究を推進した。この結果、莫大な数の社会経済史のモノグラフが蓄積されることとなり、本格的な社会経済史学の成立につながった。また学派の自称として「歴史学派」が定着したのも、この時期である。 新歴史学派は、以上のように経済学の歴史学的側面を重視する一方で倫理的側面の重要性も強調した。すなわち彼らは、ドイツ統一前後の工業化と資本主義の興隆にともない発生した労資対立の激化や社会主義勢力の拡大に直面して「社会問題」への関心を強めた。そして社会問題の解決には所得再分配を目的とする国家が不可欠と考え、資本主義の弊害を社会政策によって解決し社会主義への道を封じる社会改良的政策を主張した。1873年に社会政策学会が設立されて以降、新歴史学派は歴史的方法を通じて特定の政策課題に解答を与える体制の学としての性格を強めていき、ドイツの大学アカデミズムにおいて支配的影響力を行使するとともに、社会問題における自由放任を主張するドイツ・マンチェスター派と激しい論争を展開し、「講壇社会主義(者)」という貶称を与えられた。しかし社会政策学会に結集した新歴史学派の学者たちは、自由放任主義や社会主義を批判し、社会政策による経済への介入を主張する点では共通していたものの、社会政策の主体については見解の相違があり、大まかに分けて国家による上からの社会政策を主張するヴァーグナーらの右派、労働組合による下からの社会政策を主張するブレンターノら左派、両者の折衷的立場に立ち社会政策学会で主流派の位置を占めたシュモラーらの中間派が存在した。 さらに主流派のシュモラーは、先述の通り経済学の理論研究を抑制する傾向を特に強く有していたため、1883年以降オーストリア学派のC・メンガーから経済学からの乖離であると批判され、方法論争が展開された。この論争は新歴史学派を大きく消耗させ、また彼らにとって不利な経過をたどることになったが、シュモラーの傲岸な態度から理論的な成果を残すことがほとんどできなかった。
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