新快速の運転開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:05 UTC 版)
1970年10月の大阪万博終了直後、さらなる速達サービス提供のため、「新快速」が初めて設定された。当初の運転区間は京都駅 - 西明石駅間で、新幹線停車駅である新大阪駅を通過し、途中停車駅は大阪駅・三ノ宮駅・明石駅のみとした。所要時間は京都駅 - 大阪駅間が最速32分、京都駅 - 西明石駅が最速1時間19分、運転本数は日中の毎時1本の6往復のみであった。新快速は、当初の毎時1本体制から、車両、ダイヤともに大きな発展を遂げることになる(従来の快速の動きについては後述する)。 1971年4月26日に運転区間を草津駅へと延長した。京都駅 - 草津駅間の途中停車駅は、大津駅と石山駅であった。この当時は横須賀色の113系を使用していた。これは上述の万博輸送のために横須賀線から転入した車両で、関西では見慣れない色だったため識別には都合が良かったが、のちに湘南色に変更された車が多く、113系末期は混色での運転が多かった。 1972年3月15日には山陽新幹線の岡山駅までの延伸開業により余剰となった急行形電車の153系(いわゆる「東海形」)を投入し、日中京都駅 - 大阪駅 - 明石駅間で1時間あたり4本に増発した。この時新快速に転用された153系は「新快速色」と呼ばれる白地に青帯の塗装に変更し、「ブルーライナー」の車両愛称を付与した。新快速の運行時間外などは快速としても運用され、稀に湘南色との混色編成などもあった。 新快速は15分間隔のパターンダイヤで設定され、急行形車両の使用により最高速度を110 km/hに引き上げたことで大阪駅 - 京都駅間を3分短縮し29分運転とした。両駅で1分停車するため、大阪駅と京都駅の出発時刻が揃えられており、宣伝では、時刻表不要の高頻度と時刻のわかりやすさが強調された。京都駅および大阪駅の駅舎壁面上部に時計を形どり「29分間」を強調した広告がこの頃存在した。ただし、当時の幹線では保守間合いと呼ばれる列車の運転休止時間帯があり、日によっては運転間隔は一定でなかった。当時は草津駅 - 西明石駅間および京都駅 - 姫路駅間の2系統とその区間運転の列車があり、姫路駅発着の列車は西明石駅を通過していた。 当時の特急「雷鳥」は、大阪駅を毎時0分に新快速と同時発車していた。しかし「雷鳥」は新快速よりも大阪駅 - 京都駅間の余裕時分を多く取っていた。そのため、ともに新大阪駅を通過した後に新快速が「雷鳥」を抜き去って行く光景が、北陸方面に向かう「雷鳥」が走る度に繰り広げられた。「雷鳥」が走る列車線・外側線のダイヤを作成・管理していた国鉄本社は、これではあまりにみっともないということで、新快速のダイヤを管理する大阪鉄道管理局に、新快速のダイヤをずらすように指示したものの、大阪管理局はパターンダイヤを変更することは利用者にとって不便になると拒否した。やむを得ず本社側が折れ、「雷鳥」の新大阪駅停車開始に合わせてダイヤを5分ずらすことにした。 1973年10月1日の改正で姫路駅発着列車が1時間あたり2本に増発され、1974年7月には湖西線が開業し、1本が堅田駅(観光シーズンは近江今津駅)まで乗り入れるようになった。1975年9月1日から新快速及び快速の京都-西明石間で車内禁煙区間が設定され車両にステッカーが貼られた。この区間外では喫煙が可能であったため座席横の灰皿は残された。1978年10月2日のダイヤ改正では神戸駅が停車駅に追加された。
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