新快速設定から民営化までの快速
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:05 UTC 版)
「京阪神快速」の記事における「新快速設定から民営化までの快速」の解説
1970年10月1日に新快速が設定されて以後、快速に関しては17年後の民営化に至るまで基本的に大きな変更なく113系が使用され続けた。この時点の京都駅 - 西明石駅間での停車駅は原則として、高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅・芦屋駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・兵庫駅・須磨駅・明石駅であった。外側線を走る一部の快速は上述の通り西ノ宮駅に停車し須磨駅・西明石駅を通過した。また、通勤時間帯には新快速は運行されていなかったため、速達列車の主流は113系を用いた快速であり、夕方ラッシュ時では内側線と外側線を利用した大阪駅同時刻発車の下り快速の設定もあった。その1本は宮原電車区所属の大阪始発下り最長走破となっていた12両編成グリーン車付岡山駅行き快速で、途中駅での編成開放もされず全区間12両で運用されており、これは宇野線への新幹線接続用快速のグリーン車連結のために関西から113系を送り込むため運転されていた。この列車は宇野線快速が岡山電車区の115系に置き換えられ、さらに京阪神快速のグリーン車が廃止された後も1988年3月ダイヤ改正まで運転され、担当も網干電車区に替わっていたが、上道駅や高島駅の開業後は両駅のホーム有効長の関係上網干駅で4両を切り離していた。 1972年3月15日の改正では、東側で草津駅まで1時間あたり4本に増発された。同時に垂水駅にも電車線の快速が停車するようになり、列車線の快速停車駅に西明石駅が追加された。同年4月20日には六甲道駅に内側線を運転する快速が停車するようになった。 1974年7月20日には湖西線が開業し、一部列車が湖西線に直通するようになった。 1980年10月1日の改正でグリーン車の連結が中止されたが、それに先立って8月末から時刻表からグリーン車のマークが消え、連結されていた車両は普通車として開放され、編成から抜かれたグリーン車は首都圏へ転出した。末期までサロには旧一等車→グリーン車を示す薄緑の帯が示されており、この時代を持って実質的に関西地区での普通列車へのグリーン車付属がなくなることになった。これにより基本編成が7両に統一され最大編成でも11両となったが、1981年10月には高槻電車区の編成にサハ111が連結され基本編成が再び8両に戻された。 1985年3月14日の改正で日中の快速は高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯における普通(各駅停車)の同区間の運転はなくなった(1997年9月1日に復活)。
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